オレにしかできない仕事を見つける
「人生忠臣蔵説」をご存じだろうか。歌舞伎の仮名手本忠臣蔵は序段から11段目まである。各段の段数を2乗した数に等しい年齢が、人生の節目になっているというものだ。だから、40代とは7段目にあたり、8段目で経営者になる人生劇の前幕となる。
私は38歳のとき、8ミリビデオテープを世に送り出した。いま振り返ると、あのころが技術屋としてのピークだった。それから職種が変わり、芸風が変わって、研究開発のマネジメントをはじめた。それまで自分がエンジニアとして手がけていた磁気記録とは、異なる分野も手掛けることになった。
40代でエポックメーキングな出来事は、42歳と49歳のときに起こった。42歳のときは、初めて故郷から離れた。ソニーに入ってからも、故郷の仙台で研究開発をしていたが、アメリカのアラバマの工場に赴任することになったのだ。自分のコアコンピタンスは研究開発だと思っていたので、「なんでオレが」という思いがあった。ただ、私の美学からいって、人事についてはぐずぐず言わないことにしていたので、「行きます」と、即答した。
無我夢中で働いて、45歳で東京に戻ってきて、ビデオテープの事業部長をやっていた49歳のときに倒れた。日大板橋病院に担ぎ込まれて、36時間くらい意識不明になり。生死の境をさまよった。その後数カ月の入院生活で、病院の窓から外を眺めながら、もう会社には戻れないと思っていた。
それまでの自分に自信を与えていたのは、誰よりも無茶苦茶に働いたということ。価値観でいえば、「撃ちてし止まん」、倒れてもやるぞ、だ。にもかかわらず、周囲からは妬みもあるのか「あいつは要領がいい」と見られていたようだ。だから、本当に倒れてしまったときは、要領がいいと見られていたことに対して、ある意味で見返すことができた。ほっとして、勲章みたいに感じた。