ムシロをかぶって上陸すると、日本人娼館に連れていかれた

春代たちを乗せた船はようやくシンガポールに到着する。密航のためここでも人目を忍ぶ必要があった。夜まで待って迎えに来た小型船に乗り移り、ムシロをかぶって港に上陸した。

女街に「這って行け」と指示され、ムシロをかぶったまま道を這うように進み、ある建物にたどり着く。そこでは風呂と食事が用意されていて、春代たちは全身「熊」のように真っ黒になった汚れを落とし、バナナなどを食べた。その様子を女郎屋から来た年配の女性たちが見て品定めをし、値段交渉の末、春代たちをそれぞれの女郎屋へ連れて行った。春代が連れて行かれたのは、日本人が経営する女郎屋だった。それはマレー街と呼ばれる、日本人娼館が集まっていた通りにあった。

ジェームズ・フランシス・ワレン『阿姑とからゆきさん』によれば、イギリスの植民地のシンガポールでは、移民の増加に伴って1890年代にヨーロッパ、中国系などの娼館が急増。からゆきさんは1905年頃までに増えた。当時109の日本人娼館に633人の娼婦が働いていたとの記録がある。日本人娼館がもっとも集中していたのがマレー街で、109軒のうち32軒が並び、179人の娼婦を抱えていた。マレー街はシンガポールの東岸に位置する通りで、日本人娼館以外にも中国人娼婦の「阿姑」を抱える娼館も多数あった。日本人娼婦は人種によって客を区別せず、料金さえ支払えば、誰でも相手をする用意があったという。

イギリス統治時代のシンガポール
画像=iStock.com/ilbusca
イギリス統治時代のシンガポール(※画像はイメージです)

日本人娼館が立ち並ぶ歓楽街で、人種を問わず客を取った女たち

森崎和江『からゆきさん』(1976年)によれば、1909年の「福岡日日新聞」では、現地を訪れた記者がマレー街のからゆきさんの様子をこう描写している。

「家は洋館にして青く塗たる軒端に、123の羅馬ローマ字を現はしたる赤きガス燈を懸け、軒の下には椅子あり。異類異形の姿せる妙齢の吾が不幸なる姉妹、これによりて数百人とも知らず居並び、恥しげもなく往来する行路の人を観て、喃喃なんなんとして談笑する様、あさましくも憐れなり。衣類は目を驚かす色あざやかに派手なる浴衣をまとひ、ことごとく細帯のみにして、髪は高きヒサシに大なるリボンを掛く」

ガス燈の下に客引きのため集まる色鮮やかな服装の若い女性たち。情景は目に浮かぶが、「恥しげもなく」「あさましく」という表現に記者の視点が垣間見えるようだ。

『サンダカンの墓』(1974年)では、山崎朋子が1973年頃、現地在住の日本人の案内でマレー街の跡地を訪れた様子が描かれている。通りには3階建ての古い建物が並んでおり、案内した日本人によると、日本人娼館に使われた建物の2階、3階には6畳間ほどの広さの部屋があり、トイレや台所は備えておらず、各階に共用のものがあるのみだったという。

夜の通りで華やかに着飾った娼婦たちは、簡素な娼館の部屋で、客を選ばずサービスしていたのだろうか。彼女たちの懸命で健気な姿が伝わってくるようだ。