アパートをのみこんだのは名前も知らない小川だった

西日本豪雨のとき、私は高梁川から遠ざからねばならないと思い込んでいました。それで、高梁川堤防に面する実家から、高梁川から離れた自分のアパートに親と犬を連れて来て夜を過ごしました。大きな川から逃げようと思って自分のアパートの方へ来たのですが、単純に川から離れればよいということではなかったようです。結果的に私のアパートは2階よりも上まで浸水し、実家のほうは浸水が1階の天井まででした。

テレビなどで放送されるのはあくまで水位計とかがある大きな川ですが、実際に氾濫したのは末政川という小さな川で、もし水位計があったとしても流されたりしてなかなか正しい情報が入ってきません。救出されたあとにメディアの情報から、どの川のどこが決壊したのか、初めて知ったのです。

真備中学校に通った私にとって、末政川の存在は馴染み深いものでしたが、この10~20メートルほどの幅の小川に名前があることを知りませんでした。被災後も飛び交う「末政川」「高馬川」という名前と場所がピンとこず、そもそも普通河川にも名前があり、氾濫する恐れがあると分かっていませんでした。大きな川が氾濫すると思い込んでいたのです。

実際にそこにいると、水が足元に来て初めて危険を感じる。足元に来るまでは、水が今どこまで、何十メートル先まで来ているか見えない。それが洪水なのです。だから、ここで今あまり雨が降ってないから大丈夫と思うのではなくて、「上流に降る雨」と「近くの川の水位」の情報を自ら入手して、避難の判断をしなくてはいけない。それが正しい「自助」なのだと教訓を得ました。

日はもう出ていたのに、なぜ逃げられなかったのか

西日本豪雨で川辺地区が浸水し始めたのは、7月7日朝7時前でした。避難指示の発令から時間が経ち、しかも明るかったのに、なぜ逃げられなかったのでしょうか。川辺地区から6名もの犠牲者が出ました。

この豪雨では認知症でひとり暮らしのおばあさんが亡くなりました。声を掛けても耳が聴こえずに亡くなった方もいました。

高齢者だけではありません。まだ20代の若い母親と幼いお子さんも平屋で命を落としました。母親に軽度の知的障害がありました。その親子をサポートしていた相談支援事業所は隣町に所在していました。

避難勧告が出たとき、相談支援事業所は、この親子に地域の小学校に避難するようにと伝えたのですが、母親は小学校の場所がわからなかったそうです。また「近所づきあいがないから」と、助けを求められなかったそうです。