嘉子は生涯で武藤・和田・三淵と3つの姓を名乗った
寅子のモデルである嘉子の場合はどうだったのだろうか。武藤嘉子として生まれ育ち、女性で弁護士資格を得た第一号となり、弁護士登録した後に和田芳夫と結婚して和田嘉子となった。戦後に裁判官となり、まさに女性法曹の草分けとして仕事をしてきたのだが、結婚から15年。同僚や上司からも「和田さん」と呼ばれ、和田姓はもう自分のアイデンティティとして欠かせないものになっていたのだろう。
東京地裁の判事補時代、嘉子の後輩だった倉田卓次は、嘉子が再婚した頃に会話した内容を後年、明かしている。
「わたしはこれで三度姓が変わったわけよ」と向こうから切り出したのをいいしおに、「和田嘉子って名前を通称に残したいってことは考えなかったんですか」と尋ねたことがある。再婚相手の三淵乾太郎さんを私は個人的に識っていた。和田さんがそう求めたら、それを認めないほど狭量な人柄ではない、という感じがあったからである。
「そうもいかないわよ。間に立った人にも向こうにも悪いでしょう」彼女は言下に答えた。「……でも息子は和田姓で残るわ」
(『法令ニュース』1994年10月号、「リーガルアイ⑧弁護士・倉田卓次 夫婦別姓か創姓か」)
正確には結婚で姓が変わったのは2度であり、生涯で姓が3つあったということになる。しかし、嘉子はドラマのように事実婚を選ぶのではなく、婚姻届を出す法律上の結婚にこだわっていたようだ。後輩の倉田に、おそらく再婚相手の乾太郎にも言っていなかったであろう本音を明かしているのが面白い。
「旧姓に執着すれば結婚への情熱を低く見積もられる」という懸念
(裁判官として)一人前に生きてきた和田嘉子として、和田姓への執着がないわけではない。しかし、それを捨てて今度の夫の姓に変わる決意を示すことが、再婚を決意した気持ちのシンボルになる。旧姓への執着を示せば、結婚への情熱を低く見積もられかねない。……彼女の意見はそんな風なものであった。
(中略)
なぜそれが“あるべき”姓名になるのだ、夫婦相互の愛情の証明として、なぜ当然に女の姓が捨てられなければならないのだ、とラディカルに問われれば、現憲法下、返す言葉はない(非嫡出子の相続分の問題については一応返す言葉があるのとは、そこが違う)。その意味では、男の私は無理もなかったとして、和田さん程時流をぬきんでていた女性でも、当時はまだ男性本位の社会常識に縛られていたということだ。
(『法令ニュース』1994年10月号、「リーガルアイ⑧弁護士・倉田卓次 夫婦別姓か創姓か」)