「よう、兄ちゃんが帰ってきたよ」

うちの中は、夕めしがすんだあとだと見えて、せどの川ばたのほうから、ガチャガチャと茶碗や鍋を洗う音が聞えてくる。あの何か言っているのは母の声らしい。妹の笑い声といっしょに父のせきばらいも聞える。おれは駆け出した。

戸間口の引戸に手をかけた瞬間、おれの手はその声よりもふるえた。

「ただいま。」

おれは戸をあけて、内がわの防空用の暗幕をはねのけた。

「あッ、兄ちゃんだ。」

振りむいて頓狂な声で叫んだのは、火じろばたで妹とざるのいり豆をかじっていた弟だ。妹もあわてて口の中のものをのみこんで目を丸くして立ち上がった。

「よう、兄ちゃんが帰ってきたよ、小さい兄ちゃんが……。」

その声で、母がうらの川ばたから洗いかけの鍋ぶたをもったままかけこんできた。母は、土間にまぶしそうに立っているおれを見ると、目をすえて、ああ、とかなんとか言ったきり、あとはひと言もいえない。つづいて兄と父があわてて奥の座敷のほうから出てきた。おれは敬礼した。

父はいっぺんに顔をくずして、

「おう、信次、帰ってきたか。」
「うん、急に休暇が出たもんだから……。」

声がうわずって、まだ自分の声のような気がしない。

父はそわそわと足ぶみして、

「そうか、そいつぁよかった。……それでお前、大宮からずっと歩いてきたのか。」

おれはうなずいた。すると兄がてれくさそうに目を細くして、

「なんだ、それだったら電報でも打ってくれりゃ、おれが駅まで自転車で迎えにいってやったもの。」

2年間、こんなやさしい言葉をかけられたことはなかった

すると母もやっと口を開いて、

「それで、お前、すこしゃゆっくりしていかれるのかい、それともすぐ……。」
「四日ぐらい、いられるよ。」
「そおー、……でもまあ、ほんとに無事でなによりだった。さあさあ早く上にあがんな、うんと疲れたずらに、さあ、信や……。」

おれは胸がいっぱいになってしまった。思えばこの二年間、誰からもこんなやさしい言葉をかけられたことはなかったのである。……おれはじっと奥歯をかみしめた。もうなんにも言うことができない。鼻の中がなんだかつーんとして、いまにも涙があふれてきそうだ。

けれどもみんなの前で涙なんかみせるわけにはいかない。そういうことには、肉親はとりわけ敏感だ。たちまちおれの涙の裏にかくされたものを嗅ぎとってしまうだろう。それでは、折角の休暇も台無しだ。かりにも涙なんか見せてはならぬ。おれは勇敢であるべき水兵じゃないか……。

そこでおれは、急いでうらの川ばたに行って、顔を洗って、ついでにそこのかめの水を杓ですくって、がぶがぶ飲んだ。歯にしみるような冷たいふるさとの水だ。それでいくらか気持が落着いてきた。