危険と責任を回避する「姑息な計算」

何のことはない、最初から勝負を避ける敗北主義なのだ。言い方を変えれば、安全マージンを広く取って危険と責任を回避しておこうという姑息な計算でもある。

むろん、訴訟、特に国際裁判は、国内での裁判以上に水ものだ。法的判断というよりも政治色が濃い判断が下されることもしばしばだ。

確かに、国際司法裁判所(ICJ)での捕鯨裁判、WTO上級委員会での韓国の水産物輸入禁止措置に係る裁定など、我が国の主張が認められず、煮え湯を飲まされてきた経験は記憶に新しい。個人的には、経済局長時代に後者の問題にフルに関与し辛い立場に置かれただけに、関係者が自ら国際裁判というお白洲の場に打って出ることに対して慎重になることは理解できなくはない。

本部はスイス・ジュネーブにあるWTOの入り口
写真=iStock.com/olrat
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しかしながら、だからと言って、これほどまでに破天荒な貿易制限措置に接し、日本の漁業者が大きな被害をこうむっている我が国政府の責任者が「負けるかもしれないから、WTOに提訴しません」と言い募るのは如何なものか。

韓国がとってきた水産物輸入禁止措置と比べても、今回の中国の措置は日本からのすべての水産物を対象とするなど、あまりに過剰で広範だ。さらに、日本が営々と努力して勝ち取ってきたIAEAの判断と措置を踏まえていない、といった決定的差異がある。

「税金泥棒ではないか」という指摘は免れられない

また、過去のWTOの紛争解決の事例にかんがみれば、仮保全措置などが取られて処理水の排出が禁じられることはまず考えられない。中国がWTOではなくICJ等の他の裁判手続きを使って反訴する可能性は全く未知数であり、反訴が所与のものとは到底言えない。そもそも中国がここまで強硬に処理水放出に反対しているのは、額面どおり環境への影響を心配しているというよりも、むしろ本件を利用してアジア太平洋地域での日本の世評、名声に泥を塗り、中国のみが種々の事案で守勢に回り続けてきた事態を反転させるためではないだろうか。

以上の諸事情を勘案すれば、外交当局に期待される姿とは、WTOの裁定の不確実性やリスクをきちんと説明しつつも、「やれるだけのことはやってみます」と打って出ていくことではないだろうか。

「負けるかもしれないから何もしません」というのでは、何のために国際法を勉強しているのか、何のために高額で契約した米英の法律事務所を使っているのか、税金泥棒ではないかとの指摘を免れることはできまい。

ズバリ言おう。本音は危険と責任の回避であり、さらに突き詰めると保身なのである。

ICJにおいて捕鯨問題で敗訴し、WTO上級委員会において韓国の輸入規制について勝訴できなかった際、これらの訴訟に携わってきた当時の関係幹部は在外公館に出されたり、昇進を見送られたりした。私もその一人だった。そうした展開や先輩の置かれた苦境を観察していた後輩の岡野らは、自分がその立場に立たされることを恐れたのかもしれない。

仮にそのような次元で政策判断がなされているのだとしたら、これを劣化と言わずして何と言うのだろうか?