法曹人口拡大とともに司法制度改革の柱に据えられた裁判員制度が09年5月21日からスタートした。初めての裁判員裁判になると見られているのが東京都足立区で起きた殺人事件で、選ばれた6人の裁判員が8月3日の初公判に臨む。
裁判員制度は、国民が裁判員として刑事裁判に参加し、被告人が有罪かどうか、もし有罪ならばどのような刑にするかを3人の裁判官と一緒に評議・評決するもの。実際に裁判員裁判が扱うのは、死刑または無期懲役・禁錮の刑を科すことを認めている事件で、殺人、強盗致死傷などの凶悪事件がそれに当たる。
しかし、「自分が裁判員になったら」と思うと、不安や戸惑いを感じてしまう人が依然として多い。どの世論調査を見ても、自分が裁くことに不安を募らせる人が全体の7~8割を占めている。
そんな不安含みで始まった裁判員制度だが、私は一法曹人として別な角度から、この新しい制度はうまくいかないのではと懸念している。3人の裁判官は、必要に応じて6人の裁判員に対して法律問題の説明を行い、裁判が円滑に進むようにしていく。とはいえ、彼ら裁判官は“上から目線”が染み付いており、一般人と同じ目線で話をした経験が乏しい。
日ごろの弁護士業務でも、相談者である一般の方に法律問題をきちんと理解してもらうのはなかなか難しいもの。「3日以内」といわれる審理日数でスムーズに判決まで裁判官がもっていけるのか、首を捻らざるをえない。そのうち「どうしたらいいのだろう」と頭を抱え、ノイローゼになってしまう裁判官も出てくるのではないかと心配でならない。
もう一つの懸念材料は、いざ裁判員になったら、それまでの不安などどこ吹く風で、上から目線に豹変してしまう恐れがあることだ。たとえば、元教師や民生委員だった腰の低い人が調停委員になって「先生、先生」と呼ばれた途端、「ちょっと君ねぇ」と横柄な態度にコロッと変わってしまう姿を何度も目撃してきた。
それに裁判官や裁判員が座る席には魔物が潜んでいる。被告人や弁護士、検察官よりも一段高いその席に座ると、弁護士の私ですら偉くなった気分に襲われてしまうのだ。ほかの人の意見に耳を傾けず、自説に固執する“オレオレ裁判員”が同時に大量発生したら、評議は収拾がつかなくなるだろう。