「こうありたい」があるから、おかしいことはおかしいと言える

2つ目の理由は、とてもシンプルです。私が「こうあるべき」と思う政治家でいたいからです。

私の考える理想の政治家は「良いことは良い、悪いことは悪い」をちゃんと貫ける人です。

その理想をもとに考えてみると、自分のしたい政策を通すために議会を懐柔するなんて方法を選択するのは、レベルが低すぎます。おかしなことを「なあなあ」にするようなリーダーの率いるまちに、未来はありません。

それでもこれまで多くの市長が、わざわざ議会と対峙せずに、なれ合いに持ち込んできたのは、ある面で合理性があるからでしょう。なれ合いにしたほうが議論をする手間を省けて楽だから。選挙で勝ちやすいから。でも、それは本気で市民のことを考えている政治家とは言えません。

誰しも戦わざるを得ない瞬間があります。自分の尊厳を傷つける可能性がある相手や課題に対しては、逃げずにちゃんと向き合わなければいけない。

私は「自分のなりたい政治家」になると決めました。だからおかしいと思うことは、堂々と、おかしいと言っていく。これは私の尊厳に関わる重要な選択だったのです。

私が揺るぎない自信を持って議会と対峙できたのは、このように確固たる「私はこうありたい」という理想像を持っていたからと言えます。

演台から公の場で発言する政治家
写真=iStock.com/webphotographeer
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対立とは、反対の立場にある人が向かい合って立つこと

意見の異なる人との対立を避けようとする人も多いでしょう。対立するのは恐い、面倒だといった感情論で避ける人もいれば、そもそも対立するのは道義的に良くないことだと思い込んでいる人もいるかもしれません。

安芸高田市の報道でも「市長と議会の対立が問題になっている」などという言葉がよく使われます。まるで対立すること自体が悪いような言い回しです。

しかし、そもそも「対立」は悪いことなのでしょうか。

対立を過剰に恐れたり問題視したりしてしまうのは、まず「対立」という言葉の意味を正しく定義できていないからです。

対立とは、反対の立場にある人が向かい合って立つこと。

このように定義すると、先の項目でも述べたように、二元代表制においては市長と議会はむしろ「対立すべき」存在だとわかります。

なぜなら議会の存在意義は、市の執行機関、またその責任者である市長を監視したり評価したりすることにあるからです。

車でたとえるなら、市長はアクセル、議会はブレーキです。市長に権力が集中し、暴走することを防ぐために、わざわざ相反する機能をつくって、互いの権力行使を抑えながら均衡をとる。これが「チェック・アンド・バランス」(抑制と均衡)の考え方です。

だから、市長と議会がなれ合って、対立構造が正しく機能しなくなると“アクセル踏みっぱなし”の状態になります。とても危険です。

実際に、市長が議会を抱え込んで市長与党を形成することで、市長の「思うがまま」にしてしまっている市もあります。「なぜこれをつくったのだろう?」と疑問に思うようなよくわからない道路や公共施設ができたり、役所がやたらと豪華になっていったりする。

チェック・アンド・バランスの欠如は、市の衰退を招きます。