「カレー」と呼ばれるものを広めたイギリス人

ムガル帝国は第5代皇帝、シャー・ジャハーン(在位1628~58年)の時代に最盛期を迎える。しかし、まさにこの時期に新たな動きが外部からもたらされようとしていた。イギリスやフランス、ポルトガルの進出である。

イギリス東インド会社は1639年にマドラス(今日のタミル・ナードゥ州チェンナイ)に要塞を築いたのを皮切りに、61年にはボンベイ(今日のマハーラーシュトラ州ムンバイ)を、17世紀末にはカルカッタ(今日の西ベンガル州コルカタ)を獲得していった。

ムガル帝国は膨張するイギリス東インド会社に押される一方で、徐々に支配地域を狭められていった。1857年には、デリーでシパーヒー(インド兵)による大規模な反乱が発生したが、イギリスはこれを武力で鎮圧した。このインド大反乱を契機に、イギリスはインドを直接統治する方針に切り替え、翌1858年には完全に植民地化した。

インド支配に伴い、多数のイギリス人がやってきた。彼らの中には現地でインド人女性と結婚する者もいて、その子どもは「アングロ・インディアン」と呼ばれた。こうした家族の食事はインドの要素を多く取り入れたものになった。コリーン・テイラー・セン氏が『カレーの歴史』で、初期のカレーを「アングロ・インディアン・カレー」と呼んでいるのはこのためだ。

「カレー」は、もともとインドにあった言葉ではなかった。野菜や肉を炒めた料理を表す「kari」あるいは「karil」といった(*現地の)語をもとに、ポルトガル人が多種類のスパイスを用いたインドの煮込み料理を「カリー」あるいは「カリル」と呼んだ。さらにイギリス人もこれを採用し、「カレー(curry)」と綴られるようになったという。そして彼らは帰国すると、本国でもこのカレーを広めていったのである。

たくさんの種類のスパイスが載せられたトレー
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「ナーン」はインド発祥ではない

このカレーはライスにかけて食べるものとされた。カレーの語源はタミル語、マラヤラム語、カンナダ語と、いずれも南インド諸語の単語にあった。これらの地域は、粉食の北インドとは異なり、米食が主である。ポルトガル人やイギリス人に伝わっていく過程で、ライスとセットで食べるものという認識も付随していったのではないだろうか。

ちなみにだが、インド料理の主食といえば何をおいてもまずはナーン、というイメージは根強い。実は、ナーンはインド発祥ではない。起源はイランというのが定説で、そこから中東や中央アジア、南アジアに広がっていったようだ。

この「ナーン文化圏」、南アジアではアフガニスタン、パキスタン、インドに及んでいる。ただインドの場合は北部までで、国全体がこの文化圏に含まれているというわけではない。南インドではライスがメインで、地元料理としてナーンが出されることはない。

イギリス人は、本国でもうひとつ発明をした。「カレー粉」である。カレーを作るたびに、何種類ものスパイスを調合するのは面倒だ。ならば最初から混ぜ合わせたものを用意しておけばよいということで考案されたのである。ある意味、「カレー」はインド料理というよりは、イギリス料理と言ったほうが適切なのかもしれない。