紫式部は皇室や公家出身の名家のご先祖さま

その子孫は、院政の時代にその側近として活躍し、後鳥羽天皇の妃である源在子を出した。その子が土御門天皇、孫が後嵯峨天皇、ひ孫が南朝の祖である亀山天皇と北朝の祖である後深草天皇であるため、紫式部は今上陛下を含む現皇室の先祖の一人ということになる。

つまり、紫式部→藤原賢子(夫は高階成章)→高階為家→高階為賢→女(夫は藤原南家能兼)→藤原範兼→藤原範子(最初の夫は平清盛夫人の弟・能円、のちに源通親)→源在子(後鳥羽天皇妃承明門院。父は能円。源通親の養子)→土御門天皇という系譜だ。

このほかにも、紫式部と今上陛下は全部で16のルートでつながっているという調査結果もあるようだ。

賢子の子孫は、皇族や有力公家とさかんに縁組みをしたので、ほとんどの公家出身の名家は紫式部の子孫であるし、それと縁組みした大名家も同様だ。たとえば、後陽成天皇の第四皇子が養子になって近衛信尋となり、徳川宗家には16代目の家達が近衛家から夫人を迎えている。島津家や細川家にも近衛文麿の娘が嫁いだので、紫式部の子孫である。

約1000年にわたり、藤原氏の「世襲」が続く

道長の親戚や友人、ライバルの子孫については、関白・摂政や大臣が誰だったかという観点から整理するとわかりやすい。

藤原北家で最初に摂政になったのは、良房である(866~872年)。その甥で養子になった基経が初代の関白だが(876~891年)、宇多天皇や醍醐天皇の親政で空席になる。

そのあと、藤原忠平(930~949年)、村上天皇の親政期をはさんで、藤原実頼が務めた(967~970年)。実頼を支えた弟・師輔は右大臣のまま兄に先立ち、師輔の外孫の冷泉・円融天皇の出現で師輔の嫡男の伊尹(970~972年)、ついで次男の兼通が続いた(973~977年)。

順当なら三男の兼家が継ぐはずだったが、兄弟喧嘩で兼通は実頼の子の頼忠を後継者にした(977~986年)。これが「光る君へ」の3月放送ごろまでの政治状況だ。

しかし、兼家は権謀術数を駆使し、花山天皇を出家させて一条天皇の摂政となり(986~990年)、そのあとは、その子の道隆(990~993年)、道兼(995年)、道長が内覧や関白となった。