この経験を伝えなければいけない

ディレクターは業績評価で給料が決まる。ところが社長は仕事が内部のコーディネーションなので、そのやり方では決められない。したがって任期の3年間、一番給料が高い人より50万ドルだけ高くすることに決まっていた。当時私とドイツのヘンツラーが一番給料をもらっていたから、二人とも社長にはまったく魅力を感じていなかった。むしろ、私のような“出っ張り”をおだてないと給料は上がらないのだから、これは面倒臭い。

その点、ダニエルはすごかった。世界に100人以上いるパートナーの顔と名前、奥さんの名前まで全部覚えていた。私のカミさんにあっても「ハイ、ジニー」とくる。

私も常務会メンバーだから一緒に世界中の事務所の査察によく出かけて行ったが、ダニエルは受付嬢にも「リンダ、これを預かっておいてくれないか」と名前で呼びかけていた。驚くべき記憶力、はたまた気配りである。私はその対極で、名前を覚えられないタイプだから、社長が務まるわけがない。

「次はオオマエ」と世間が言い始めた頃に、「俺が社長になったら本社は日本に移すぞ!」と脅かしていたら、いつの間にか、「大前だけは社長にしたくない」というコンセンサスができていた。ダニエルの跡を継いだフレッド・グラックとは戦略プロジェクトで相棒だった関係もありいまだに刎頸の仲である。彼の任期が終わるときを以て、私もマッキンゼーを辞める時が来た。

社長にこそならなかったが、原子力の世界から偶然迷い込んだマッキンゼーで右も左もわからないところからスタートして、最速でディレクターになり、アメリカ人以外で初の生え抜き事務所長になり、経営幹部の一人としてマッキンゼー改革の一翼を担った。マッキンゼー時代の23年間を濃縮すれば、相当に稀な経験となる。

ブルーチップ(米株式市場で取引される優良株式銘柄)の企業の支社長ぐらいにはなっても、取締役会や常務会のメンバーになった日本人はほとんどいないはずだ。

私は自分のひとつの役割として、マッキンゼーという企業を通じて得た貴重な「世界化」の経験を、次の世代の日本人に伝えなければいけないと思っている。

英語ひとつ取っても、東海岸のエスタブリッシュメントの役員室で使われている英語というものは、学校の英語教育や英会話学校で学ぶものとは違うし、気軽な海外留学で身に付く若者同士の粗野な英語ともまったく違う。

「英語はYes、Noがハッキリしている」などというのは、ハイソサエティの英会話に接したことがない人の言い草だ。マッキンゼーのような会社で簡単にYes、Noを言ったら、次の日にはクビになっていないまでも嫌われ者になっているだろう。

そうしたハイレベルな英語のコミュニケーションスキル。意思決定でコンセンサスを得るときの議論の仕方。あるいはアメリカの企業が海外展開していくときのスピードや手順。説得術や交渉術。グローバル化のスピリット。

ビジネス・ブレークスルー(BBT)大学院大学では、それらを体系化してカリキュラムを組んでいる。講義と映像を組み合わせたコンテンツは6000時間以上に及ぶが、原点にあるのはマッキンゼー時代の私の経験である。

私個人の思い出や自慢話で終わるのではなく、多くの日本人にこれを共有してもらって、ビジネスの糧にしたり、真のリーダーシップを磨いてもらいたいと考えている。

(次回は《私が変えたマッキンゼー(4)—「75歳」で定年退職》。2013年1月7日更新予定)

(小川 剛=インタビュー・構成)