明治維新後、地方制度は目まぐるしく変化

しばしば、江戸時代の日本は300藩に分かれていたと人口に膾炙しているが、実は江戸時代に「藩」という言葉はほとんど使われておらず、大政奉還の時点で281人の大名がいて、その領地は俗に言う会津藩なら「松平肥後守御領知」などと呼ばれていた。また、領地は飛び地状に散らばっており、たとえば、彦根藩は東京の世田谷や栃木県の佐野を飛び地にしていた。

王政復古ののち、地方制度は目まぐるしく変わった。1869年の版籍奉還によって府藩県三治制となり、旧大名領は藩と呼ばれるようになって、それ以外の幕府領などは、東京・京都・大阪の3府と40ほどの県に分けられた。

そして、1871年7月14日に廃藩置県が行われ、3府302県となった。この間にも藩や県の設置・廃止があって、藩の数は版籍奉還の時点で282、廃藩置県の時点で261であった。

1872年の廃藩置県当時の日本の都道府県地図
1872年の廃藩置県当時の日本の都道府県地図[画像=吉田東伍 他『大日本読史地図』(冨山房)/PD-Japan/Wikimedia Commons

会津藩、加賀藩、薩摩藩は公式名称ではない

さらに、10~11月に規模をそろえるため第1次府県統合が行われ、3府72県と約4分の1になった(北海道は開拓使、沖縄は琉球藩でこの数字の外数である)。これが、現在の都道府県のルーツである。そこから徐々に合併が行われ、1876年には、3府35県となった。

この区分けはほぼ合理的なものだったが、旧国・旧藩の対抗意識などからどうしても独立したいという運動が起き、山縣有朋らが精査して、明治21(1888)年に3府1道43県にまとめられたのである(複数の県が合併したときは原則として元の県の県庁のひとつを継承したが千葉県と宮崎県では中間地点が選ばれた)。

旧幕府領の県名は旧名だったり、郡名だったりもしたが、藩を引き継いだ県の名称については、廃藩置県の段階では、すべて府藩県庁のある都市名と一致していた。だから、廃藩されたのは加賀藩でなく金沢藩であり、薩摩藩、会津藩、紀州藩なども公式名称としては存在したことがないのである(会津は国直轄の若松県となった)。

ただ、同じ名前の府藩県が存在したり、地名らしくないとして藩名が変えられたところも多かった。

秋田(久保田)、岩崎(秋田新田)、松嶺(松山)、大泉(鶴岡)、石岡(府中)、六浦(金沢)、加知山(勝山)、峰岡(三根山)、清崎(糸魚川)、豊橋(吉田)、舞鶴(田辺)、亀岡(亀山)、真島(勝山)、鴨方(岡山新田)、生坂(岡山新田)、高梁(松山)、豊浦(府中)、厳原(府中)がそれである。