「全員リレーをやりたくない」15人をどう捉えるか
そう、体育祭というのはそもそもお祭りです。
一方で、運動が得意な子どもたちのためには、朝練をしたくなるようなハードな競技なども準備しました。お仕着せではなくて、まさしく青春ドラマのような感動が生まれてきました。
やらされる体育祭から、みんなで楽しみながら盛り上げることのできる体育祭に変わっていったのです。
もちろん困難は山ほどあります。練習日程も練習方法も当日の進行も準備もそこで起こるすべてのトラブルも、何もかも生徒たちが自ら解決していくのですから、大変さは運動会だった時代とは比べようがありません。すべてを全員が楽しめるということを目標にして進めていくのですから。
中でも全員リレーをやるかやらないか、その決定プロセスは象徴的な出来事でした。
3年生にアンケートを取ると8割が「全員リレーをやりたい」と回答。その他は1割が反対、1割はどっちでもいいというものでした。
つまり、「やりたくない」と意思表示をした人が、数にして15人ほどいたのでした。
この15人をどう捉えるか。
後日、生徒会長が卒業式の時のスピーチでこう語っていました。
「もし、賛成が100パーセントだったなら、僕たちは全員リレーをやったと思います。でも結果は違いました。話し合いをした結果、僕たちは全員リレーをやらないという結論を出しました。それは僕たちのゴール(目標)『全員が楽しめる体育祭』を実現させるためです」
困ったら「最上位目標は何か」を考える
全員リレーをやりたくない理由は、女の子に抜かれて嫌だとか、運動が苦手で苦痛とかさまざまです。それはそれで当人にとっては切実な事情です。
全員リレーがあるから体育祭が楽しめないのだとすれば、最初に設定した最上位目標「全員を楽しませる」ということには合致していない、と生徒たち自身が判断したのでした。つまり、運動が得意な子たちは思い切り競争ができるし、苦手な子は遊べて楽しい一日になる。という次第で、「全員が楽しむ」という課題を工夫しながら実現したのでした。
最上位に据える目標は全員がOKしたこと。誰かを切り捨てたり、誰かが我慢しなければならなかったりするのは民主主義的ではない――そう生徒たち自身が判断したのです。
生徒たちは、生徒全員が楽しめる体育祭をまさに作り上げたわけです。
課題を解決する力がつくということで、それ以後何かに迷った時、自分にとっての最上位目標は何なのか、ということを考えて対処できるようになりました。それは学校に限りません。どの分野、どの国へ行っても、困った時には自分で考えて解決していく力を身につけていく人になります。