「国が売春に寛容」という論理の横滑り
ただ問題は、「公益性」が、「大吉原展」にも関係してくるところにあるのではないか。
芸文振が唱えていたように、刑事処分を受けた俳優が出演していた映画に助成することすら「公益性」を盾に憚られるのであれば、売春の地=吉原をフィーチャーした展覧会を公的機関=国立大学法人東京藝術大学で行うなど、もってのほか、となってしまうのではないか。
映画の助成が「国が違法薬物に寛容だ」とのメッセージが広まる恐れにつながるとの理屈が成り立つのなら、「大吉原展」の開催は「国が売春に寛容だ」ととらえられかねないとの論理に横滑りしてしまうからである。
もちろん、最高裁の判決で、そうした理屈は否定された以上、今回の展覧会についても、少なくとも開催をやめさせる根拠にはなりえない。とはいえ、開催前から既に炎上している以上、主催者は、開催中止や延期を検討している可能性はある。
展覧会であれ映画であれ、なぜここまで重く見るのだろうか。
「たかがアート」と考えることの意味
あえて語弊を恐れずに言えば、「たかがアート」の視点が欠けているからである。
アートは、政治のように法律を決めているわけでもないし、経済のようにダイレクトにお金に結びつくわけでもない。社会問題になるほど、アートそのものの被害者がいるわけでもない。
卑下する必要があるわけではないし、そう貶しているわけでもない。実際、アートマーケットは世界で沸騰しており、村上隆や草間彌生の作品が超高額で取引されている。
お金だけではない。芸術によって、生きるための大きなエネルギーをもらえるのは確かだし、それなしの生活は、少なくとも私には考えられない。
それでもやはり、「たかがアート」に過ぎない。
戦争のように、すぐに人の生死にかかわるわけではないし、医療のように、直に人を助けられるわけでもない。そして、今回の「大吉原展」をめぐる議論が象徴しているように、もはや「アートだから許される」は通用しなくなっている。歴史や文脈を踏まえてもなお、いまの価値観に合わせて展示しなければいけない、との声は高まっている。
だからこそアートは不可欠なのである。
あくまでも「たかがアート」でしかない、それぐらい非力であるからこそ、そこには、とてつもない魅力があり、威力があり、引力がある。
「たかがアート」と思って、目くじらを立てず、しかし同時に、「されどアート」ゆえの社会的責任や影響力の大きさを考える。そこにこそアートの意味があるのではないか。
その意味は、大道芸術館のようにプライベートな施設でも存分に果たせるのだから、公的な催しとして行う価値もまた大きい。
「大吉原展」もまた「たかがアート」の立場から考え直したい。