「まだ始まっていない」からこそ

いや、この問いへの答えは、すぐに出るのかもしれない。

始まっていない「にもかかわらず」ではなく、始まっていない「からこそ」、ここまで話が盛り上がるのではないか、と。

現時点では、誰も、おそらくは主催者すらも、展示全体を見ていないからである。何が、どうやって展示されているのか。どんな印象を持つのか。世界中の誰にもわからないからである。

たしかに、プレスリリースを見れば、展覧会会場の構成や、「みどころ」「主な出品作品」の解説があるから、想像はできよう。

着想を得たとする高橋由一の名作《花魁》(1872年)は、重要文化財であり、「花魁が纏う神秘性を剥ぎ取ってしまったともいえるだろう」との解説文は、主催者のスタンスを示す。

高橋由一作「花魁」
高橋由一《花魁》[重要文化財] 明治5年(1872) 東京藝術大学(画像=東京芸術大学大学美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

それとて、会場で実際に作品を目にするリアリティーには比べようがない。

だからこそ、みんなが簡単に論じられるのである。プレスリリースやウェブサイトの文言だけを材料にするから、いくらでも批判できるし、逆に、擁護もできる。

どんな立場にせよ、「まだ始まっていない」を言い訳にできるし、「開催には反対しない」とか「開催するのが大事」といった、原則論を取れる。

私設美術館の「エログロ」は炎上しない

原則論は、さらに、会場の東京藝術大学が国立大学、つまり、税金で運営されているところからも拍車がかかる。税金を使っている「のに」ケシカラン、なのか、税金を使っている「ゆえに」幅広く認めるべき、といったかたちで、話は広がっていく。

開催前、という点に加えて考えるべきなのは、こうした公的な催しをめぐる、昨今の動きである。

今回の展覧会が、東京藝大ではなく、私立大学を会場にしていたら、あるいは、私設の美術館なら、問題視されなかったのではないか。

編集者・写真家の都築響一氏のコレクションの一部を展示している、東京・向島の大道芸術館を挙げよう。

そこには、かつて日本各地にあった秘宝館から引き取った作品が並ぶ。秘宝館では、裸の人形や、性器をモデルにしたオブジェなどを展示していた。都築氏による表現を借りれば「エログロの妄想を『等身大』のインスタレーション空間に表現する純粋な観光施設」である。

*都築響一「秘宝館の記憶」『大道芸術館 museum of roadside art』2022年、5ページ