政権も視野に入れた「現実・柔軟路線」へ
だが、97年に新進党が解党し、翌年に菅直人氏率いる民主党が「民主中道」を掲げて野党第1党となると、共産党は徐々に立ち位置を変化させていった。「たしかな野党」から脱却し「野党陣営の一員として政権の選択肢となる政党」に向かおうとしたと言える。
こうした「現実・柔軟路線」を牽引したのが、当時委員長だった不破哲三氏だった。この年の夏の参院選で民主党が勝利し、参院で野党が多数となる「ねじれ国会」が誕生すると、共産党はその後の臨時国会の首相指名選挙で菅氏に投票。不破氏は「しんぶん赤旗」のインタビューで、他の野党との「暫定政権」への参画に言及した。
2000年の党大会で不破氏は議長となり、書記局長だった志位和夫氏が委員長に就任した。基本的には志位氏も、前任の不破氏の路線を引き継いだ党運営をしていたと思う。
同党はこの党大会で規約を改定し「社会主義革命をへて日本に社会主義社会を建設」などの表現を削除した。04年には綱領を改定し、自衛隊や天皇制を「当面容認」する考えを打ち出した。民主党への政権交代を目前に控えた09年、志位氏は記者会見で、民主党政権への対応について「『行動する是々非々』という立場で対応する」と述べた。
21年衆院選の敗北直後から起きた「反動」
2017年の衆院選直前に野党第1党の民進党(民主党から改称)が分裂し、枝野幸男氏が立憲民主党を結党した時は、共産党は全国67の小選挙区で候補者の擁立を自主的に取り下げ、立憲を側面支援した。「野党第1党が消える」非常事態とはいえ、党内手続きを重視する共産党が、瞬時の「政局的判断」を行ったのだ。
そして21年の前回衆院選。共産党は「野党共闘」を前面に出し、立憲民主党などと「限定的な閣外からの協力」という政権合意を結んだ。街頭にはためく同党ののぼりには「政権交代をはじめよう」の文字。立憲民主党が「変えよう。」の表現にとどめるなか、共産党の「前のめり感」がやたらと目についた。
だが、この衆院選で共産党は公示前議席を減らす結果に終わった。この直後くらいから、党の内部にある種の「反動」が始まったように思う。衆院選の敗北を受け、影を潜めていた原理主義的な考えが、一気に浮上したように筆者には思えた。