男子はやっかい者で、松平定信も田安家から養子に出された
当初、幕府は御三卿を「家」として存続させるつもりがなかったようだ。そのため、男子は厄介者で、なるべく他家の養子に押し付けようとした。
越前松平家が家格引き上げを狙って、吉宗の子(もしくは孫)を養子にしたいと願い出ると、一橋家の初代・宗尹の長男が養子に出されてしまう。通常、長男は跡継ぎ候補なので、他家の養子に出されることは珍しい。しかも、その長男が早世すると、3男を再び越前松平家の養子としている(次男は早世)。
結局、4男の一橋徳川治済が家督を継ぎ、さらにその弟も福岡藩黒田家の養子に出されている。藩主・黒田継高は男子が死去していたため、外孫(娘の子)を養子にすべく幕府に打診したが、幕府は一橋徳川家からの養子を強引に押し付けたのだという。
寛政の改革を実施した松平定信は、田安家の初代・宗武の7男で、兄の田安徳川治察が病弱だったため、田安家としては次期当主の予備として残しておきたかったようなのだが、幕府が強硬に久松松平家の養子へ送り出したことは有名である。
11代将軍に選ばれたのは一橋家の家斉だった
家治の後継者問題が発生したとき、田安家はすでに治察が子どもがないまま死去してしまったので、開店休業状態だった(のち一橋家から養子を迎えて再興)。一方、松平定信には出番がなかった。どうも徳川家には、他家の養子に出された人物を後継者にしないという不文律があったようだ。
だから、家治が養嗣子を迎えるとしたら、一橋徳川家くらいしかアテがなかったのである。かくして、一橋徳川治済の長男・豊千代(のちの徳川家斉)が家治の養嗣子に選ばれた。ここに至るまで、策士の治済が暗躍したという噂もある。
豊千代が家治の養子に出向く際、治済は「お前が将軍になれるのは、家治の子どもが少なかったからだ。お前はそうならないように子どもをいっぱい作れ」と言い含めたという。だからなのか、家斉は大奥で房事に明け暮れ55人もの子をなして、これまた後々まで禍根を残した。なんでもほどほどがちょうどいいということであろう。