ワースト2位は「家康と信長の関係性」
たしかに、築山殿は天正7年(1579)8月、死に追い込まれ、翌月には信康も自刃した。しかし、その原因は築山殿自身に帰せられている。天正3年(1575)に宿敵の武田氏を岡崎城に迎え入れようとして発覚した大岡弥四郎事件では、築山殿が主導的な役割を果たしたとみられ、その後も信康を巻き込み武田氏と内通した形跡があった。
そうであれば、家康は2人を処断するほかなかった。家康はみずから妻子を殺す決断をしたのである。
しかし、脚本家にとっては、妻子は信長に殺されたのでなければ都合が悪かったようだ。なにしろドラマでは、妻子を殺された家康が「信長を殺す」と発言。信長の宿所を確認すると、「本能寺で信長を討つ」と決意し、家臣に準備までさせた。
さきほど明智光秀に触れた箇所で、家康が「鯉の臭いを気にした」と書いた。じつは、家康は臭わない鯉が臭ったことにし、わざと信長を激高させて光秀を遠ざけ、信長を討ちやすい状況を整えた、というストーリーだったのである。そして、重臣の酒井忠次(大森南朋)にこういわせた。「殿はお心が壊れた。信長を討つ。この3年、その一事のみを支えに、かろうじてお心を保ってこられたのだろう」
史実の家康に、信長を討つ動機は見当たらない。だが、「どうする家康」では、最愛の妻子を信長に殺されたという設定にして、その動機を創出。家康と信長の関係性を、史実とかけ離れた異常なものにした。このことをワースト2に挙げるほかない。
1位は「妻の遺言に振り回される家康」という虚構
この家康と信長の関係も、築山殿のファンタジーに端を発している。だが、築山殿は主役の造形がいびつになった原因であり、ここでは結果として描かれた主役のあり方のほうを、上位に挙げることにした。原因がなんであれ主役の描写がゆがんでいれば、それ自体が問題だと考えるからである。
ワースト1も同様に、起源は築山殿のファンタジーにある。すなわち、家康がことあることに「戦なき世」を強調したことである。
家康が260年わたる泰平の世を築いたのは疑いようのない史実だが、結果としての「泰平」が「目的」だったかどうかは別の話だ。家康が能力の高い武将であったことは疑いないとして、天下を獲ることができたのは、種々の偶然が折り重なり、複雑に絡み合った結果である。
戦国最多かと思われるほど多数の戦闘を経験し、絶体絶命の危機を何度も克服した末に獲得した天下。幼少期の人質経験をはじめ、その人生は一筋縄ではいかなかった。「思い」だけで天下が獲得できたのではない。
ところが「どうする家康」では、家康は築山殿のファンタジーから強烈な影響を受け、「戦なき世」をめざした。これだけの大人物が妻の空想を後生大事にし、一生かけて平和を希求する。あまりに安っぽくはないか。そんなに薄っぺらなら、天下を獲れたはずも、忠臣に恵まれたはずもなかろう。
家康の家臣たちは、酒井忠次、本多忠勝(山田裕貴)以下の徳川四天王も、石川数正も本多正信(松山ケンイチ)も、俳優たちはよく演じた。家康も回を追って演技が深まった。だが、軽い言葉で語られすぎた結果、人物の奥行きに光が当たらなかった。家康の家康たる根拠が希薄なので、家臣団の結束が強い理由も伝わらなかった。それらはひとえに脚本の責任である。