旧統一教会だけではない、創価学会にも「宗教2世」問題

美術館のラウンジからは、池田氏が「本陣」と位置付け、創価学会初代会長の牧口常三郎を顕彰した東京牧口記念会館が視界に飛び込んでくる。1993(平成5)年に完成した白亜の殿堂である。牧口記念会館の内部には、650畳もの広さを誇る大礼拝堂などがあるとされているが一般公開はされておらず、ベールに包まれている。12本の太い柱が特徴的なルネサンス様式の建築で、高さ125メートル、延べ床面積約2万平方メートルを誇っている。当時の創価学会の隆盛のほどを窺い知ることができる建造物である。

(写真左)東京富士美術館/(写真右)牧口記念会館
撮影=鵜飼 秀徳
(写真左)東京富士美術館/(写真右)牧口記念会館

開館直後、この場所でオウム真理教による池田氏襲撃事件が発生する。オウム真理教は創価学会を敵視していた。教祖の麻原彰晃(元死刑囚)は部下に命じ、サリン散布による池田氏殺害をもくろんだ。複数人のサリン中毒者が出るが池田氏は無事で、後に事件が明るみになった。

創価学会の八王子進出に危機感を抱き、反学会キャンペーンを張った国会議員もいた。自民党の小林多門氏は自公連立政権発足前の1999(平成11)年の総選挙で、「八王子を創価学会の城下町にしてはならない」と訴え、公明党候補の高木陽介氏に勝利したエピソードも残っている。

さて、強烈なカリスマ性を持っていた池田氏の逝去は、創価学会のみならず、他の宗教教団あるいは政治へ少なからず影響を与えそうだ。ひとつは信仰の継承問題だ。

学会の入会のピークは、終戦後から高度成長期にかけて。1950年代以降、2代目会長の戸田城聖氏が「折伏大行進」と呼ばれる大布教活動を展開し、当初は数千人だった会員数を一気に増やした。後を継いだ池田氏は、公称827万世帯の国内最大規模の新宗教にまで育てあげた。

その背景には集団就職で都会に出てきた若者らがいた。彼らは、故郷の菩提寺やイエの縛りから解き放たれた一方で、都会で孤独を強いられていた。特に女性は都会でも就労の機会が得られず、新たな「居場所」を創価学会や霊友会、立正佼成会などの新宗教に求めたケースも少なくなかったのだ。

こうしたマンパワーを背景にして池田氏によって、公明党が設立されると1967(昭和47)年の衆院選初進出において、いきなり25議席を獲得した。1983(昭和58)年の衆院選では結党以来最高の59議席を獲得している。

だが、近年の公明党の票数は、じりじりと減少に転じている。