江戸幕府の約260年の歴史には、徳川家を支えた数多くの女性が登場する。中でもよく取り上げられるのが、3代将軍家光の乳母・春日局と側室・桂昌院だ。英語学者・評論家の渡部昇一さんの著書『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)より、一部を修正して紹介する――。
京都から「将来の将軍」の乳母に志願
のちの春日局の福は、明智光秀の重臣斎藤利三の娘。稲葉通明の娘のおわんが母親である。光秀から丹波国を与えられた父利三は黒井城主であったが、福が4歳のときに亡くなった。主君光秀に従い本能寺の変で織田信長を討った後、秀吉軍に敗れ、処刑されたのである。
このことについては、春日局の手記がある。世継ぎ問題でお家騒動になっては大変だと感じた家康は、やはり長男が相続すべきであるとして、竹千代を駿河に呼び自分の子供として3代将軍に就けようとしたと。それはすぐには叶わず家康は亡くなるが、その意思ははっきりとしていたから、3代将軍は竹千代というコンセンサスが幕府内にはすっかり出来上がっていた。
また、家康の遺言には土井利勝(大炊頭)に相談せよというような趣旨が記されてあったという。さらに駿河の大納言、すなわち忠長(国松)が結局後に滅んだのは権現様の罰だなどと、春日局の手記に書かれている。