悪僧を妄信し、綱吉に「犬を大切に」と忠告
八百屋の娘時代のお玉に亮賢という僧が、「あなたは将軍の母になる相がある」と予言した。また、懐妊した時、どうしても男子がほしいと望んだお玉は亮賢に祈禱をしてもらい、念願叶い男子を得た。桂昌院は後に、この亮賢のために護国寺を建ててやるほど入れ込んだ。賢いわりには、いったん信じたら妄信、狂信する性格であったようだ。
息子綱吉の長男が5歳で亡くなると、今度は亮賢から推薦された隆光という悪僧の言うことを、桂昌院は信じるようになった。
「戌年の綱吉公が男子を得るには、犬を大切にしなければなりません」
隆光のばかばかしい話を鵜呑みにした桂昌院がそれを綱吉に伝えたことが、綱吉が犬公方と呼ばれる愚行を繰り返す端緒となった。
母に何でも従うマザコンに江戸庶民は振り回された
しかも綱吉自身は普通の将軍よりは、たとえば4代将軍家綱あたりよりはかなり優秀ということで、お目付役であり将軍補佐官の大老を置かなかった。綱吉は大老職は設置せず、側用人を置く、側用人政治を行った。側近政治と言い換えてもいい。
そのことも、大奥を握っている桂昌院の権力を強め、「生類憐みの令」のような政令を発布する要因となった。
そしてなによりも綱吉が典型的なマザコンであったことが大きかった。また、儒教に入れ込んだ綱吉は「孝行」ということを特別に重んじ、母の言うことには何でも従うというところがあったのである。
「生類憐みの令」は綱吉が死ぬまで、実に24年間も続けられ、人々は大迷惑を被ったのである。