この屋敷には私の涙と汗が染み付いている
当時の女性にとって、結婚しないという選択はあり得なかった。父を早くに亡くした繁子さんは祖母と母という、“働く女”の下で暮らしていた。祖母は東京で助産婦や看護師の派遣会社を営み、家には常時、助産婦や看護師の“卵”である住み込みの女性が大勢いて、家事は全て、その女性たちが担うため、繁子さんは何不自由ない暮らしを送る、気楽な女子大生でもあった。
それが一転、山深い土地にある旧家の“嫁”になったのだ。しかもこの大川家、名主であるばかりか、近隣の農家に機織り機を貸与して機織りを依頼、製品に仕上げて呉服問屋に送るという、足利一帯に栄えた織物業の「元機屋」として、地域経済の中核として栄えた由緒ある家柄。
「結婚すると言っても、相手がどんな人か全く知らなくて嫁いできて。あとは、ただ、ひたすら嫁です。この屋敷には、私の涙と汗が染み付いているんです」
義母の言うことは全部聞いた
一家の権力を握っていたのは、義母だった。産婦人科医の婿養子を取り、一家の大黒柱として君臨した。
「家付きの娘だから、お婿さんを取ったの。だから家の中でも一番、威張っていた。綺麗な人で、姿もいいし。その頃は、お姑さんの言うことは、全部聞かないといけない時代」
嫁として一日中、広い屋敷の掃除に明け暮れ、川で洗濯をして、夜は毎晩、うどんを打つ。
「この辺では毎晩、粉からうどんを打たないといけない。何一つ、家事なんてしたこともないし、お米の研ぎ方もわからなかった。それを、一から教えてもらって。その家の決まりがあるから、後から来た嫁さんは従わなきゃならないの」
裕福な家の、気楽な娘として過ごしてきた繁子さんが、よくこんな嫁の不文律に耐えたものだと思う。しかも義父は産婦人科医だったため、その手伝いも嫁の仕事だった。
「赤ちゃんが産まれるのは夜が多くて、夜中に門をどんどんと叩きに来る。私は母屋の2階で寝ていて、起きて門に行って、『何ですか?』と聞くと、『お産が始まったんだけど、なかなか、出てこないので、先生に来てほしい』と。おじいちゃんを起こしに行くと、スッといい機嫌で起きてくれて、それはとても助かりました。それから、門の崖下に住んでいる車夫を起こしに行くんです。月が煌々と照っている時はなんか、怖かったですね。それから、おじいちゃんが帰ってくるまで、ずっと起きて待っているんです」