当時から経営陣の問題点が指摘されていた

その石坂氏は経営陣の改善を痛感したと書き残している。経営幹部が組合に押しかけられないようにするために、社長さえ誰がどこにいるかわからなかった。石坂氏の後、岩下文雄氏が東芝の社長に就任したが、業績は再度悪化した。当時、日本経済は高度経済成長期のさなかだったが、東芝はそうした追い風を成長につなげることが難しかった。

業績立て直しのために、東芝は石川島播磨重工業(現IHI)から土光敏夫氏を招いた。土光氏は、経営の合理化を断行し再建を果たした。石坂、土光両氏の手腕によって、東芝は成長を遂げた。1969年には、アニメ『サザエさん』の提供をはじめ、名実ともにわが国を代表する優良企業の道を歩んだ。

土光氏の経営手腕も東芝の成長に貢献した。土光氏は、従業員の自主性を尊重する経営風土を醸成した。それは、後のNAND型フラッシュメモリ、ノートパソコンなど世界初といわれた東芝の製品開発を支える原動力となった。1981年以降、土光氏は行財政改革(“土光臨調”)にも取り組んだ。行政改革と民間企業の経営と領域は異なるが、土光氏は改革を本気で進めた。

厳しい売り上げ目標の裏で1562億円の利益操作

東芝は石坂、土光両氏の手腕によって、より成長期待の高い分野に進出し付加価値を生み出した。社会に貢献するという社風も確立し、後継者を育てた。両氏は、経営者の責任を果たした。

しかし、その後、東芝の経営は停滞した。バブル崩壊やリーマンショックなどの影響もあり、東芝は経営の役割を発揮することが難しくなった。象徴は、経営者からの“チャレンジ”の号令だ。ある時期、同社経営のトップは、ノートパソコンなどの過度な売り上げ目標の実現を厳命した。2008年度から2014年度の4~12月期まで計1562億円の利益操作がなされた(不正会計問題)。

東芝は、新しい領域で付加価値を生み出すよりも、既存の事業の収益を短期間のうちに増やそうとした。経営トップの過去の成功体験への執着、自尊心などは強かった。目先の収益を過度に追い求めるトップに周囲がブレーキをかけることも難しかった。

一方、世界経済のデジタル化や国際分業は加速した。米国ではソフトウェアの開発が加速し、台湾や韓国では半導体やデジタル家電メーカーが急成長を遂げた。東芝は競争力を失った。資産の切り売りによって、事業運営体制は縮小均衡に陥った。