経済危機と議会政治への幻滅
急進右派の群小政党の一つにすぎなかったナチ党は、ミュンヘンでの武装蜂起に失敗した後、選挙を通じて政権獲得をめざす「合法路線」に転換し、政治集会や街頭闘争など党活動の全国展開を進めていたが、1920年代の相対的安定期には支持が伸び悩んでいた。こうした状況を一変させたのが、1929年10月に始まる世界恐慌である。1928年5月の国会選挙で2.6%の得票にすぎなかったナチ党は、1930年9月の選挙で18.3%の票を獲得し、一気に第二党に躍り出た。
深刻な経済危機が国民にもたらした絶望、この危機に対処できない議会政治への幻滅が、反体制的な政党であるナチ党の地滑り的な勝利の原動力となったことは間違いない。
これ以降、ナチ党は広範な層から支持を集める「国民政党」へと脱皮し、ヴァイマール体制への最大の反対勢力として、国政の舞台でも無視できない存在となった。この間、ナチ運動は草の根レベルにも浸透し、とくに党の準軍事組織である突撃隊は左翼勢力との街頭闘争で存在感を発揮して、膨大な数の若者を惹き付けていた。
経済対策をめぐって国会が空転するなか、ナチ党の国政での躍進はさらに続き、1932年7月の国会選挙では37.4%の票を得て、ついに第一党の座を占めるに至った。この選挙では共産党も14.6%の票を得たので、ナチ党と合わせると反議会勢力が52%と過半数を占めることになり、国会は完全な麻痺状態に陥った。これはほかでもなく、国民の大多数が民主主義と議会政治に背を向けたことを意味していた。
大統領大権で首相の座についたヒトラー
こうした事態は、ヒンデンブルク大統領とその周辺の保守勢力に対して、新たな政治的提携を模索させることになった。彼らは1930年3月以降、大統領大権にもとづいて首相を指名し、議会に拘束されない統治を続けていたが、ブリューニング、パーペン、シュライヒャーの各内閣が政権運営に行き詰まると、ヒトラーを首班とする右派連立政権だけが、残されたほぼ唯一の選択肢となった(ただし軍事クーデターという選択肢も完全に消えたわけではなかった)。
1932年11月の国会選挙でナチ党が200万票余りを失って党勢を後退させ、反対に躍進を続ける共産党の脅威が高まったことも、この選択を後押しした。保守勢力の間では、ヒトラーを首相に据えて閣僚の多くを保守派で固めれば、過激な煽動家を政権内で飼いならして、その大衆的基盤を政権運営に利用できるのではないかという観測も広がった。
かくして1933年1月30日、大統領がヒトラーを首相に任命して、ナチ党と国家人民党の右派連立政権が誕生した。だが両党合わせても国会の過半数に届かなかったので、先行する政権と同様、大統領の権力に依拠した少数与党政権であることに変わりはなかった。