明治時代から昭和初期にかけて、さまざまな職業に変装して、知られざる世界の裏側をリポートした女性記者がいた。文筆家の平山亜佐子さんの著書『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)から、一部を紹介しよう――。

25歳で自伝が出版された“最初の化け込み記者”

1907(明治40)年10月18日、「大阪時事新報(*1)」朝刊に〈家庭視察のめい――変装の苦心――花売りも駄目――上流向の小間物屋――眠られぬ夜の旅情たびごころ〉の文字が躍った。婦人記者が雑貨を扱う行商人に化け、上流階級の家庭に潜入するというのだ。

読者の覗き趣味を満たす「化け込み」シリーズ「婦人行商日記 中京なごやの家庭」の記念すべき幕開けである。始めたのは「大阪時事新報」の下山京子、最初の化け込み婦人記者である。

京子はこの企画で鮮烈な社会的デビューを飾った。この企画の画期性を知ってもらうには当時の新聞記者の地位および婦人記者をとりまく環境についても触れる必要がある。だが、まずは京子の生い立ちを見てみよう。

最初の化け込み記者、下山京子の写真
出所=『ナショナル』1〈1〉、ナショナル社
最初の化け込み記者、下山京子の写真

京子には自らの半生を綴った著書『一葉草紙ひとはぞうし』(玄黄社、1914年)がある。執筆時、なんと25歳。自伝を書くには若すぎるがそれだけ話題の女性だったのである。話題の半分以上は記者を辞めてからのお騒がせ的生き方によるものだがそれについては後述する。

自伝によると京子は1889(明治22)年(*2)に生まれた7人きょうだいの末っ子。生まれは牛込、育ちは左門町、いずれも現在の新宿区という都会っ子である。官省勤めだった父は日清戦争から帰るとすぐ静岡に隠居したため、ほぼ母子家庭。どうもこの母が強烈な人(*3)だったらしい。

長女にあらゆる芸事を仕込み、徳川慶喜(*4)の妾にさせる。末っ子の京子にも踊りや清元(*5)や日本画を習わせる。一方で、家督を継ぐはずの長男は遊郭に出入りする放蕩ほうとう息子。お陰で貧乏だったというからギャップが大きい。そのうち頼りの長女と長男が死去。次男は大阪住まい、次女も家庭の主婦とあって、母は京子ひとりを頼るようになる。

(*1)大阪時事新報 1888(明治21)年に福澤諭吉が東京で立ち上げた「時事新報」が、1905(明治38)年大阪に進出して創刊。
(*2)生年は1888(明治21)年、生まれは四谷箪笥町説あり。
(*3)母が強烈な人 「子供の時分は、本所の割下水(江戸時代に開発された排水路)で育った」「夏のお祭り時分には、下屋敷から駕籠で遊びに行った」「三千石の暮らし」という本人の語りと、長女を徳川慶喜の妾にさせた点から松平家の下屋敷(墨田区横網1丁目)に育ったのではないか。
(*4)徳川慶喜 江戸幕府最後の征夷大将軍(第15代)。天皇へ統治権を返上する大政奉還や、新政府軍への江戸開城を行なった。
(*5)清元 主に歌舞伎の伴奏音楽として用いられる、三味線音楽の一種。