なぜ信長はこんなにも無防備だったのかという謎
そして、同年5月29日、信長は100人ばかりの小姓衆を供に上洛、本能寺に宿をとりました。
翌日、近衛前久以下大半の公家が、上洛のお礼に信長のもとに伺候します。
信長は、なぜこんなにも無防備だったのか、という謎があります。
おそらく信長は、「日本はこんなにも安全な国になったのだ」とアピールしたかったのだと思います。
もはや全国で私戦が繰り広げられる戦国時代ではない、新しい時代になったのだ──そう宣言したかったのでしょう。
自分を裏切る者が畿内にいるとは、想像さえしていなかったようです。
信長には案外、そういううかつな面があります。恨み、憎しみ、ねたみ、鬱屈──自身が合理的な人間だからでしょうか、そうした人心の裏面に思いが及ばないのです。
信長は明智によって「誅された」と書かれた文書
明智光秀は、なぜ織田信長を討ったのでしょうか。
光秀の中には、さまざまな感情が渦巻いていたはずです。一つだけはっきり言えるのは、これまで語られていたような「光秀単独犯」説はありえないということです。
いくつかの証拠が残されています。
静岡県富士宮市の日蓮宗西山本門寺に、信長の首が祀られています。寺伝によれば、「本能寺の変」の当日、信長の供をしていた原志摩守宗安が、日海上人(後の本因坊算砂)の指示によって、この寺に運んで供養したということです。
寺に残された過去帳には、〈天正10年6月 惣見院信長、為明智被誅〉とあります。
信長は明智のために誅されたという意味です。
「誅する」とは、上位の者が罪ある者を成敗する場合に用いる言葉です。
当時、信長よりも地位が高い人物、それは天皇か将軍しかありません。つまりどちらかの命令を受けて光秀が討ったということになります。
そうでなければ、主君を討った光秀の行為を「誅する」と表現するはずがないのです。