ご結婚後の「男児を産め」という重圧
平成5年(1993年)6月9日、皇居にある宮中三殿の賢所で「結婚の儀」が厳かに執り行われた。皇族方や宮澤喜一首相ら三権の長、各閣僚、都道府県知事らが参列した。
その後、オープンカーでの祝賀パレードの時には、それまで降っていた雨も止み、光が射した。沿道では約19万2000人の人々が祝意を表した。
慶びに満ちた門出だった。
ところが、皇后陛下が皇室に入られると、「男児を産め」という強烈な重圧がかかる。
平成11年(1999年)12月には、朝日新聞がまだ医学的な見地から正式に発表できる段階に至っていないのに、一面トップ記事で「懐妊の兆候」と勇み足の報道をした。これに各メディアも追随して加熱報道がなされる中、宮内庁から「稽留流産」との発表がなされるという、極めて残念な出来事もあった。
ご結婚から8年後の愛子さまご誕生
平成13年(2001年)12月1日、天皇・皇后両陛下のご長子、敬宮(愛子内親王)殿下がめでたく誕生された。この時のご様子を宮内庁病院の関係者は次のように語っていた。
「言葉に言い尽くせないほど感動しました。心の底から信頼し合っていて、お幸せそうというよりも美しい光景でした。お二人で長期にわたる不妊治療を経てようやくご出産という喜びを掴まれた絆は、本当に素晴らしいものでした」と。
翌年の歌会始では、皇后陛下は敬宮殿下を授かったお喜びを、次のように詠んでおられた。
生れいでし
みどり児のいのち
かがやきて
君と迎ふる
春すがすがし
晴れやかなお気持ちが伝わる御歌だ。
同年4月2日の記者会見では、皇后陛下は「生まれてきてくれてありがとうという気持ちで一杯になりました」と、涙を滲ませながら語られた。
宮内庁長官が「秋篠宮家に第3子を期待」
ところが宮内庁は、お子さまが男児でなかったことから、早々と第2子を期待する動きを見せ、それが次第に強まった。皇后陛下が体調を崩されても宮内庁の対応は鈍かった。
さらに平成15年(2003年)12月11日には、当時の湯浅利夫長官の記者会見で、天皇・皇后両陛下にはもうお世継ぎを期待しない、と通告するに等しい心ない発言も飛び出した。
「秋篠宮さまのお考えもあると思うが、皇室の繁栄を考えた場合、3人目のご出産を強く希望したい」と。
宮内庁長官が記者会見という場で、このような発言をあえて行う必要がどこにあったのか。直接、ご本人にお伝えすれば済む話だったのではないのか。