強いチームを作るにはどんな指導が必要なのか。サッカー日本代表の監督を務めたイビチャ・オシム氏は、ジェフユナイテッド市原・千葉の監督に就任した際に61日間連続で練習を続けたことがある。チームドクターだった池田浩さんは選手のケガを心配したが、意外なことに練習を重ねるほど選手のけがは減った。ジャーナリストの島沢優子さんの著書『オシムの遺産』(竹書房)から一部を紹介しよう――。(第2回)
2007年7月15日、1次リーグのベトナム戦を控え、会見で記者の質問におどけた表情を見せる日本代表のイビチャ・オシム監督(ベトナム・ハノイ市内のホテル)
写真=時事通信フォト
2007年7月15日、1次リーグのベトナム戦を控え、会見で記者の質問におどけた表情を見せる日本代表のイビチャ・オシム監督(ベトナム・ハノイ市内のホテル)

「公式戦の帯同ドクターはおまえひとりでやれ」

チームドクターは、心配でたまらなかった。

目の前の選手たちは、息を切らせて懸命に走っている。だが、ボールはまともにつながらない。それぞれの判断もサポートも遅いのに、監督は「パススピードを上げろ!」と高速パスを要求する。パスを受けに来る味方に合わせてボールスピードを落とすと「遅いっ」と雷が落とされるのだ。

「もう全然サッカーになってなくて。専門家でもないし余計な心配かもしれませんが、これで大丈夫かなとハラハラしていました」

そう話すのは、当時ジェフを任されていた池田浩だ。茨城県の名門日立一高サッカー部出身で、順天堂大学医学部大学院在学中に古河電工サッカー部のドクターに。その後Jリーグ発足からしばらくして、ジェフのチーフドクターになった。

オシムがやって来る前は、合宿には帯同するものの、練習日にクラブハウスを訪ねるのは1週間に1回だけだった。練習を見て、けが人のチェックをしたら監督に報告し、週末は公式戦に足を運ぶ。公式戦約40試合はドクター5人が交替で担当したが、池田はチーフなので、その6割を請け負った。

ところが、オシムが「ドクターが変わると選手のメンタルに影響するから、公式戦の帯同ドクターはおまえひとりでやれ」と池田に命じたのだ。当時、ひとりのドクターが専任でつくのは、浦和レッズ、ガンバ大阪、名古屋グランパスといった大きなクラブだけ。ドクターを雇用できるのは資金力があるからこそである。これに対し、ジェフは勤務医や開業医が本業の合間に自分の時間を割いていた。そのなかで池田ひとりが、順天堂大学での病院勤務をこなしながらほぼ全ての公式戦に帯同する。異例のことだった。