※本稿は、稲垣えみ子『家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択』(マガジンハウス)の一部を再編集したものです。
家事がうっとおしかったのは「大変すぎた」から
それにしても我ながら驚くのは、我が人生から、あのメンドクサイ家事が「消えた」ということだ。
50年近くずっと格闘してきた家事。やらなきゃやらなきゃと思って、でもふと気づけば洗濯物はたまり食器はたまりホコリもたまり洋服は散乱し、つまりはいつだって全然やりきれなかった家事。結局、自分は人として大事な何かが欠落しているのではなかろうかと苦しい気持ちになる家事……。
そうなのだ。家事というものは、別に好きでもなんでもないのに、生きている限り私の人生に妖怪のごとくペッタリととりつき、エンドレスなうっとうしさをグイグイ提供し続けてくる存在であった。
それがふと気づけば、いない。消えてしまったのである。
一体何が起きたのか。
考えるに、家事があんなにうっとおしかったのは、結局は「家事が大変すぎた」からなのだ。もしもその大変すぎる家事をちゃんとやりきることができたなら物理的にも精神的にもステキな生活になるとしても、問題は、それを日々やるとなれば時間も労力もかかりすぎて絶対無理ということなのである。永遠にやりきれるはずもない途方もない宿題。目の上のタンコブ。そんな相手をなぜ好きになることができるだろう。
「家事をなくそう」と狙ったのではない
でもその相手がですよ、まるで呼吸でもするように、その存在すら忘れてしまうほどにラクに短時間にできちゃうんだとしたら……もちろん話は全然違ってくる。ただ呼吸でもするようにステキ生活を楽しめば良いのである。
そう、これこそが我が人生に起きた魔法なのだ。
で、一体何をどうしたらそんな素敵な魔法がやってきたのか?
ということで、いよいよこれからそのタネを明かしていくわけだが、まず断っておきたいのは、これは「家事をなくそう」「ラクにしよう」と狙ってやったことではないということだ。家事とは何の関係もない、しかもどちらかといえばネガティブな体験が重なった結果、いつの間にか想像もしていなかった極楽にたどり着いていたのである。
今にして思うのだが、実はそういうものこそ「ホンモノ」なのではないだろうか。人が頭で考えることなど知れている。どんなに頑張って考えたところで従来の体験や常識を乗り越えるのは至難の業だ。だから人類の偉大な発見のほとんどは多かれ少なかれ「偶然」によってもたらされている。
ということで、私もきっと偉大な発見をしたのだ。