※本稿は、千林紀子『仕事の成果が上がる「自分ごと化」の法則』(有隣堂)の一部を再編集したものです。
入社4年目に待ち受けた“試練”
1990年4月に入社した私は、3年間にわたる女性総合職の「大量採用の初代」に当たります。男女あわせて大卒総合職が256名入社し、うち110名ほどが女性でした。最初の配属先は大阪支社で、新人営業として約3年半勤務しました。
私は元来、器用な性質ではなく、エンジンがかかるのは遅かったものの、2年目からはまるで初めて自転車に乗れたときのように、顧客との人間関係も構築できて営業成績が急激にアップしました。
販売予算の達成率や一斉キャンペーンの受注などでは、大阪支社全体でも上位に入ることが増えてきて、3年目になると「営業が天職ではないか」と思えるほど楽しく働いていました。
サラリーマンの異動は、だいたいそういう時期に発生します。お客様の半分は女性なのに、マーケティング担当に女性がいないのはおかしいという社長の号令で、営業総合職の女性の中から誰かを異動させることになりました。後で聞いた話ですが、私の営業日誌を社長が読んで「面白かった」というのが理由で声がかかったようです。
1993(平成5)年9月、大阪支社からアサヒビール東京本社のマーケティング部商品開発課に異動になりました。
「一般職の女性社員との間で軋轢になるかもしれない」
商品開発課には同期の男性と一緒に配属になったのですが、業務説明を受けて愕然としました。男性同期は最初から商品開発の担当だったのですが、私には庶務の仕事と課内の補佐的な事務作業が割り振られたのです。
上司からは、初めての女性総合職であり、「一般職の女性社員との間で、最初から仕事に差をつけたら、軋轢になるかもしれない」と、私が働きにくくならないための配慮だと説明を受けました。
大阪支社では、「総合職は営業」「一般職は内勤」と業務の区分が明確になっていましたが、本社は総合職も一般職も内勤のため、全国転勤の有無という採用コースは違っても、どのように業務の区別をしたらよいか処遇に困ったようでした。
根本をたどれば、「女性=庶務・補助業務」という「性別役割」の慣習や認識が、当時は根強く存在していたことによりますが、今ならば考えられません。
これを「アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)」と言い、あれから30年以上を経た今なお、社会での大きな問題として注目されています。