職場と自宅の往復で、いつのまにやら中年に
朝起きて、身支度を済ませて、出勤して、仕事をして退勤。仕事帰りにスーパーに立ち寄り、総菜コーナーで適当なおつまみとお酒を購入して帰宅。NetflixやYouTubeを観ながら晩酌して就寝。
こんな生活を繰り返しているうちに、あっという間に何年も過ぎて、気づけば中年にさしかかっていた――という人は、プレジデントオンラインの読者の方にもそれなりにいるのではないだろうか。
ああ、自分はどうしてこんな無駄に時間を使ってしまったのかと後悔で胸が苦しくなる。だらだらとした時間を過ごさずに、自己研鑽に充てていれば、婚活に充てていれば、キャリアチェンジに充てていれば、もっと違う人生が待っていたかもしれないのにと、自責の念に駆られて憂鬱になることもある。けれども、また仕事が始まると、同じような生活を繰り返す方向に、自然と体が流れて行ってしまうのだ。
私、来月で33歳になるんだけど、まさかこんな何もない33歳になるとは思わなかったな。独身恋愛経験ゼロで友達もマトモにいない、熱中できる物もこれといった趣味もなく職場と家を行き来するだけで仕事終わりに安くなったスーパーの惣菜を買って家で酒飲みながら食べ独りで動画観るのが日課、休日も独り
— 負けないちゃん (@shirukaaa) October 16, 2022
本当はよくないとわかっているけど、それでもやめられないだらだらとした生活のループからなかなか抜け出せないのは、その人の性格や資質になにか決定的な問題点や落ち度があったから――というわけでは必ずしもない。そうではなくて、「自宅と職場の往復だけの毎日で、仕事終わりにスーパーの総菜を買い、晩酌しながら動画を観る」という営みをルーチンにしてしまったことにこそ原因があるだろう。
ようするに「自宅と職場の往復だけの毎日で、仕事終わりにスーパーの総菜を買い、晩酌しながら動画を観る」という営為は、一見すると「無味乾燥な繰り返しの日常」の比喩のように見えるが、しかし実際にやってみると、これがそれなりに楽しかったりするのだ。
……そう、最大の問題は「この日々が虚しいどころか、そこそこ充実して楽しい」ことだ。
人生をとっとと終わらせてしまうほどにはつらくも苦しくもないが、かといって現状を大きく変えなければと動機づけられるほどの焦りも感じない、熱くもなければ冷たくもない、身体を長く浸けていられる、まさしく「ぬるま湯」なのである。
自宅と職場の往復生活を続け、仕事帰りにはいつものおつまみといつもの発泡酒を買い、それを家でチビチビやりながらYouTubeやNetflixを見る――たしかに停滞した日々であるが、だが本当の意味で「自分にはもう何もない」と言ってしまえるほど完全なる虚無ではない。新着の娯楽コンテンツを家にいながらにして届けてもらえる快適な環境にいると、そういう暮らしも案外悪くないと思えるようになってくる。“本気”を出して社会活動や人間関係にコミットする道を選ばないことがますます「賢い選択」になっていく。
私自身YouTubeでショート動画を観ることに最近ハマっている。数十秒、長くても1分以内にまとめられた動画を次々に観ていくと、あっという間に時間が経ってしまう。ランダムにサジェストされるショート動画は、ひとつとして同じものはない。毎日つねに新しい動画と一期一会を楽しむことができる。外に出た方が楽しいかもしれないが、なんとなく面倒くさいときに、YouTubeを立ち上げてしまったら、もう動けない。