「命を大切にする」から、命は増えなくなった

語弊をおそれずにいえば、子供の命や尊厳をもっと粗末に扱えるような社会観や人間観が世の中に再インストールされなければ、どれだけ子育て世帯の家計サポートをしようが、教育無償化をしようが、子供は増えない。

あえて乱暴な言い方をすれば、子供を気軽に殴って躾けても別にどうってことのなかった時代だからこそ、子供を持つことへの「恐怖感」が乏しかったのだ。いまはそうではない。子供を叱るときにうかつに殴ろうものなら、最悪の場合は警察に逮捕されてしまうことさえある。体罰でもって「わからせる」ことが必要にならないくらいに聞き分けのよい子が生まれてくれたらそれでもかまわないが、そうではなかったらどうすればよいのだろうか。親は途方に暮れてしまう。昭和の時代はそうではなかった。子供がなにか粗相をしでかしたら、親からも(ともすれば親ではない近隣住民からも)容赦なく鉄拳制裁を受けた。それが間違いなく素晴らしいことだったとは言わない。体罰には問題点も多いが、しかし「体罰はけっしてゆるされない」とされる社会よりも、親をやることのプレッシャーは軽かった。

現代社会は「子供の命/人権」に対してきわめて意識が高く、体罰や虐待を絶対に許さないという社会正義がある。これに異論を唱える人は皆無だ。子供が心身に傷を負うことなく良好な家庭環境で育つことに反対する人などいなくて当然だ。しかし「なにがあっても子供の命や人権を脅かすような言動をとってはならない」という親に課せられた責務は、これもまた「恐怖感」となって、現代の若いカップルに子供をつくる動機を削ぐことにもなってしまった。

反射で母親の指を握る乳幼児
写真=iStock.com/west
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現代社会で多くの人が素朴に内面化する倫理観や道徳観に反していることは百も承知で、それでもあえて言うが、子供なんか別に大切にしなくてもいいという規範が強まっていけば、子供を持つことを想像するときに生じる「不安」や「恐怖」は次第にやわらいでいき、もっと純粋に「喜び」や「楽しさ」を味わえるようになるだろう。

高まりすぎてしまった「ただしさ」のせいで、私たちはこの世にもっとたくさん生まれてくるはずだった子供たちを間接的に殺してしまった。高まりすぎた「ただしさ」のせいで生まれなくなった子供を、経済的インセンティブを強化することによって産ませる政治的手法には限界がある。実際のところ、現代の家計支援型が主である「子育て支援」は思うほど奏功していない。

「命は地球より重い」といったスローガンに代表される、いわゆる生命至上主義的な価値観が、子供にとって歴史に先例がないほど安心安全で平和で健康で快適な社会をつくった。子供は病気で死なず、事故で死なず、犯罪に巻き込まれて死なない。体罰を受けることもなければ、栄養状態もいたって良好で、娯楽にも事欠かない、豊かで先進的な社会を生きている。

しかしそのような生命至上主義的で先進的な価値観を実現し維持するためのコストを、現代の親たちは支払いきれなくなっている。