無理に面白いことや新奇な意見を披露する必要はない

そんな僕も大阪府知事や大阪市長時代は、「自分の発言=組織の看板」という意識を常に持っていました。組織のリーダーはコメンテーターとは異なり、無理に面白いことや新奇な意見を披露する必要はありません。もし発言するならば、それは組織の利益に与する発言であるべきなのです。

②の、世間一般と個人の間の「感覚のズレ(乖離)」ですが、「発言」が墓穴を掘るのは「ジョークのつもりだった」場合が圧倒的に多いのです。

「死刑のはんこ」も「生娘シャブ漬け」も、発言者は「ジョーク」のつもりで発言したはずです。しかし語られている内容がよくなかった。今の時代、死刑という厳粛であるべき事柄はジョークにふさわしいとは思えませんし、大企業の戦略を「シャブ漬け」に例えるなど、もってのほかです。

これは世間一般の感覚と、自分個人のそれが完全に「ズレ」ていたことに気づけなかったことが敗因です。

笑いやジョークは、そもそもが「ズレ」を利用するもの。「お堅い人間が、予想外に面白いことを言う(する)」といった意外性が起爆剤となり、人々の笑いが巻き起こります。しかし、そもそもの一般常識や認識が、世間と「ズレ」ていたのでは、お話になりません。

彼ら彼女らにしても「面白いことを言わなくては」「印象に残る言葉を発したい」というサービス精神が背中を押したのでしょうが、本来、ユーモアやジョークは非常に高度な技術を要することを肝に銘じ、自らハードルを上げることは慎むべきでしょう。お笑いタレントや芸人たちがテレビで普通に面白おかしく話していることには、一般人では決して真似することができない超高度なテクニックが施されているのです。タレントや芸人たちはそこを見せずに軽々と日常会話風にやっている。だから自分にもできると思ってしまうことが地獄に向かう第一歩ですね。

最後に「仲間内の発言」がマスメディアに載ったとき、質的に激変すること(③)についてお話しします。政治家や経営者が「失言」しがちなのは、自分の味方に囲まれている安心感があるときです。政治家なら後援会や支持者に囲まれている、経営者なら社員を前にしている――など、身内ならではの気安さが「ジョークで笑わせたい」欲を生んでしまう。しかし、数千人であろうと「身内」だけを前に喋ることと、最終的にマスメディアに載り、何百万、何千万人もの耳目に触れることの質的な違い、破壊的効果を理解していない人が多すぎます。