「食べるふり」でようやく肉豆腐丼を口に運んだ

「いや、全部食べて」「いやいや、半分こ、しようよ」「俺は食べてきたから」「そんなこと言わないで」などというやりとりの後、やむなく私は半分を別皿に移した。父はスプーンを持ったまま「しずかだね。どうしてこんなにしずかなの?」などと語り始め、一向に食べようとしないので、私は父の正面に座り、大袈裟なジェスチャーで食べて見せることにした。

催眠療法でいう「ミラーリング」である。鏡のように相手の動きを真似することで、心身を同調させるという手法。自分が鏡となって相手を映しているかのように動くことで相手の動きを引き出そうと考えたのだ。私が「あ、これ、おいしいね」「おいしいよ、お父さん」などと言いながら食べ始めると、父はいつものようにスプーンで肉豆腐丼を完全にクラッシュした。それを固めて成型し、表面をケーキのように滑らかに仕上げ、削りながら口に運んだのである。

「うまい! 最高!」

そう言って父は完食し、私は洗い物をしながら深い溜め息をついた。

父はこうされることをずっと待っていたのか。認知症の食事介助は、ここまでサポートしなければならないのだろうか。

高齢者の食事を支援する介護者
写真=iStock.com/kazuma seki
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父は「家父長制型認知症」

これは認知症というより長年の習慣だろう。母は毎日欠かさず三食を用意し、父に給仕していた。かれこれ60年にわたって続けてきた習慣で、父にとって食事とは「食べる」というより母の給仕を受けること。母の前に「座る」ことなのだ。

この習慣こそ認知症の原因ではないだろうか。家事を一切せず、外でお金を稼ぐだけで、あとはすべて母任せ。いわゆる家父長制が認知症を招いている。父はアルツハイマー型というより家父長制型認知症といえるのではないだろうか。

認知症の診断基準のひとつであるDSM-5によれば、認知症とは「認知機能の低下」「認知行為の障害」(『認知症疾患診療ガイドライン 2017』日本神経学会監修 医学書院 2017年 以下同)であり、具体的には「毎日の活動において、認知欠損が自立を阻害する」こと。

高橋秀実『おやじはニーチェ』(新潮社)
髙橋秀実『おやじはニーチェ』(新潮社)

つまり認知欠損によって自立した生活が営めないということである。その認知欠損とは「せん妄の状況でのみ起こるものではない」「他の精神疾患によってうまく説明されない」とのこと。せん妄やうつ病、統合失調症などの精神疾患では説明できない認知欠損ということなのだが、家父長制なら説明がつくのではないだろうか。

日本の診断基準でも認知症の本質とは、「いままでの暮らしができなくなること」(長谷川和夫、猪熊律子著『ボクはやっと認知症のことがわかった』KADOKAWA 2019年 以下同)とされている。「それまで当たり前にできていたことがうまく行なえなくなる」という「暮らしの障害」「生活障害」を認知症と呼ぶそうで、そのまま当てはめると父の認知症は母の死によって発症した。家事を一切してこなかったからこのような事態を招いたわけで、その根本原因は明らかに家父長制なのである。