家康の次男・秀康に始まる越前松平家、家光の弟・保科正之の会津松平家など、分家も松平姓を名乗り、御家門として御三家に次ぐ家格を誇る。前田家や池田家などの外様大名にも松平姓が称号として与えられ、信頼関係を築いた。

【疑問その3】
家康の嫡男・信康はなぜ将来を期待されながら「切腹」したのか

松平信康の首塚を祀る若宮八幡宮(写真=愛知県岡崎市)
松平信康の首塚を祀る若宮八幡宮(写真=愛知県岡崎市)

家康と信長の同盟は、家康の嫡子・信康と信長の娘・五徳の結婚により結ばれた。信康は有能な武将で将来を期待されたが、1579年、21歳の若さで、信長の命で切腹している。

原因は、信康の母と武田家の内通、信康自身の不行跡、五徳の讒言ざんげんなど諸説あり、「家康の悲劇」の一つとされてきた。近年は、信康の家臣がクーデターをたくらんだため家康に粛清されたなど、家康自身の意思だったとする説も提起されている。

愛知県岡崎市の若宮八幡宮に、信康の首塚が祀られている。

【疑問その4】
家康はなぜ、たった2年で将軍職を秀忠に譲ったのか

1605年、家康は将軍職を嫡子・秀忠に譲った。家康が征夷大将軍となったのは1603年だから、たった2年でその職を手放したことになる。

関ケ原の戦い後、豊臣家は領地を削減されて約60万石の一大名となった。それでも、豊臣秀頼を主君と仰ぐ大名は多かったとされる。家康は、早期に将軍職を自らの嫡子に継承することで、日本の統治者が徳川家であることを天下に示そうとしたのである。

ただし、実権は駿府城に隠退した「大御所」の家康が握っており、実態は江戸と駿府の二元政治だった。1611年には、二条城で三カ条の法度を発し、諸大名に幕府法への遵守を誓わせて、幕府が最高権力機関であることを示した。

【疑問その5】
家光はなぜ、日光東照宮を絢爛豪華な建築群へと改修したのか

1636年、3代将軍・家光は、祖父・家康が祀られる日光東照宮の全面的な改築を命じた。これにより、社殿の規模は大きくなり、その様式も、穏やかな和様から、絢爛たる唐様へと変貌した。大改築の背景には何があったのか。