「普通のお母さん」なんてどこにもいない

もちろんこうしたことは、私自身、自分の子育てが終わった今だから言えるのですが、子育てをしていた当時は、私自身も「子どもの面倒をちゃんと見なくて私はなんて悪い母親だろう。こんな母親を持って子どもはかわいそうだ」という思いを抱えていました。私だけではなく、おそらく働いているお母さんたちの多くがそうだと思います。

子どもにしてみれば、いつも学校から帰ると家にいて、おやつを出してくれる。あるいはいつもそばにいて、話を聞いてくれる。そんないわゆる「普通のお母さん」を期待しているかもしれない、と。

でも、この「普通」というのは、アンコンシャス・バイアスはもちろんですが、それを超えて言葉の暴力だと私は思うのです。「普通」の人なんてどこにもいませんし、そもそも普通という基準はないのです。ですから、「普通の家はこうだ」「普通のお母さんはこうだ」ということに縛られてはいけません。どの子も、その子の与えられた場で、与えられた運命を生きるほかありません。

子育てに過度な罪悪感を抱く必要はない

自分の子育てを振り返ってみて、自分自身は親心のつもりでやったことが「あれはアンコンシャス・バイアスだったな」と思うことがあります。

「女の子は普通より少し成績が良い程度では、周りのルールに適応しないと風当たりが厳しい。それを跳ね返せる力があれば良いけれど、うちの娘には跳ね返す力がそこまでないのではないか……」と思い込んで、挑戦を勧めなかったことがあったのです。

ちょうど私がオーストラリアの総領事だった頃のことです。子どもは、高校受験期に差し掛かり、進路を決めなくてはいけないときでした。私は日本での大学受験には不利になっても、海外の高校で過ごすのはよい経験になると思い、オーストラリアに来るようすすめたのですが、子どもはオーストラリアではなく日本で受験勉強することを本人の意思で選択しました。

本人は海外志向がそれほど強くない、英語力も十分でないという自分を把握していたからでしょう。オーストラリアの大学に進学して、社会の片隅で過ごすより、日本でちゃんと仕事ができる資格を身につけたいと医学部に進みました。

今では彼女の選択は間違っていなかったのだと思っています。

そういう意味で、マミーギルトから派生する子どもへの思いはいくつになっても、消えないものなのかもしれません。でも、過度に罪悪感を感じる必要はないと私は自身の経験からも思います。