日本の学界、特に私の知る文科系の学界で感ずることは、日本でなかなか独自の業績が生まれない背景には、知識を外から学んで記憶し、それを正確になぞらえることを偏重する傾向が強いということがある。日本の若い学者には「よい経済学者とは自らが思考、体験を通じて意味のある問題を発見し、できれば世の中に解決を与えようとする者である」と言いたい。

アメリカの教育法はプラグマティズムにも通じるが、知識を外から与えるのでなく、基本文献を理解した後は、少なくとも経済学において何か意味のある有用な問題を見つけ出し、それに解決法を考えることに集中する。

私が「イェール大のPh.D.」といったら、ある日本の記者は「いつ博士課程を修了されたのですか」と質問してきたが、講義を受ける課程を重んじる伝統からの質問だったのだろう。米国の大学院教育では、教室で講義を受ける課程に比べ、研究指導で博士論文を作成する過程がより重要視される。先行研究に頼るよりも自分で問題を考え、考えた結果をどう自分の文章で表現するか、この修練の過程で学者になる基礎が養われるのだ。

また、日本では「先生」という言葉が使われすぎるのも気になるが、これは本連載で触れたことがあるので、ここでは繰り返さない。

日本の大学も経済学部の改革を

多くの個性が集い、自由闊達な議論を交わすなかから、新しい発想や価値観が生まれるというのが、ヘーゲル、マルクスを通ずる弁証法の知恵である。しかし、私が教養学部の学生のころ、ドイツ留学帰りの先生に、ある学生が質問したら先生が顔色を変えてしかりつけた。いまでも日本のある法学部の教授は「学生の質とは何分間講義に静かに座っていられるかで決まる。よい大学では講義が1時間半でも静かに聞いているが、他の大学に行くと1時間も経たずにざわつく」と言われているそうである。

その教授が米国の名門大学の様子をご覧になったら、さぞ驚かれるだろう。私の師であるジェームズ・トービン教授の講義も、教授の講義は半分程度もなく、あとは学生に質問して議論させる。教授の役割は、学問の大筋を外さないような議論の主導と巧みな整理が主である。ロー・スクールの講義も同様である。

明治以降、日本は学問分野で後発国だったから、まずは海外からの知識を取り込むことを優先した。ある意味で賢い知恵だったかもしれないが、いまでは日本人の知性、個性、独立性を阻害していないだろうか。

今後の日本発展のために、「知のインフラ投資」が必要だ。創造性こそがこれからの成長の原資になる。それは知識を多く詰め込んでも生まれない。世界的に多くの優れた業績を上げた経済学者の根岸隆氏によれば、「創造するためには頭を白紙の状態にしなくてはならない」のである。

(構成=渡辺一朗 写真=時事通信フォト)
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