数々のお看取りを経験してきた身として
この命の重みは、たとえ凶悪犯罪を犯した死刑囚のものであっても、けっして軽いものではない。しかしそれをこともあろうに所管する法務大臣が、ウケ狙いのジョークような扱いで語っていたことも明るみに出た。
葉梨康弘法相が所属する岸田派のパーティーの席上で、自らの職務に関して「朝、死刑のはんこを押して、昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ」などと発言した。法務大臣の職務を軽んじた発言ということで結果的に更迭となったが、職務以前に、彼が人として「死」そして命の重みをまったく理解できていないことに私は驚愕とともに、底知れぬ恐怖を覚えた。
私は医師という仕事柄、そして在宅医療という分野で高齢者や末期がんの患者さんと日々接するなかで数々のお看取りを経験してきたこともあり、「死」と接する機会が非常に多い。多くの人にとっては非日常である「死」が、私にとっては日常の一部にすらなっており、ややもすると「死」というものに対する感覚が鈍麻してしまっているとさえ言えるかもしれない。しかしそれを迎える一人ひとりにとってすれば、人生で唯一の、最大かつ最後のイベントであることに変わりない。それだけは常に意識している。
経済的な苦しさから我慢を続けてきた患者さん
在宅医療をしていると、じつにさまざまな疾患を持つ患者さんに接するのだが、とくに自分よりも若い方の終末期、さらに最後まで苦痛が取りきれなかった方に対する過去の診療経験を思い出すたび、今でも胸が痛くなる。詳細については差し控えるが、他院から紹介されて私が訪問診療を開始したときにはすでに、ある呼吸器疾患の終末期であった。
数年前に医師から「もう治らない病気」と言われてしまったことから、「もう通院しても仕方ない」と諦めて受診しなかったところ、医師から治療する気がないとみなされて匙を投げられてしまったようだ。前医との具体的なやりとりまでは分からないが、両者の認識に行き違いがあったことは間違いないようだった。
そしてその残念な経緯から、彼の心の中には少なからず「医師への不信」が存在していると考えられた。常時酸素吸入をしないと呼吸困難に陥ってしまう状況であったが、経済的にも苦しいとのことで、ギリギリまで訪問診療の回数も増やさず我慢されていた。
しばらくは小康状態だったが、その後急速に呼吸状態が悪化。ついには入院もやむなしとの局面となったものの、それでも最後まで自宅にとどまることを選択されたため、こちらとしても在宅のままで可能な限り苦痛を軽減しようとすべく薬物治療を行い続けた。しかしけっきょく最後まで苦痛を緩和しきれなかった、という事例である。