経済的な事情で選択肢が狭められてしまう
この方に経済的な問題がなかったら、どうだったであろうか。死は早晩訪れたであろうが、もう少しきめ細やかに最後の苦痛を緩和できたのではなかろうか。
いや、たとえ入院できたとしても、完全に苦痛が除去できたかといえば極めて困難だったであろうし、昨今のコロナ禍で家族とも頻繁に面会することもできず、家族に看取られることなくたった一人、病室で亡くなることになったかもしれない。経済的な理由よりも、仮に苦痛に喘ぎながらでも、住み慣れたわが家で家族に見守られて最後を迎えたいというのが、入院を拒んだ理由であったのかもしれない。
ただ経済力さえあれば、もう少しきめ細やかな治療やケアを行えたのではないかと思われる事例は、残念ながら実態として少なからず存在する。経済的な事情によって選択肢が狭められてしまうという事例には、それこそ日常的に遭遇するのだ。医療や介護にかかる自己負担金は、現在でも少なくない家庭に大きな負荷となっている。それにもかかわらず、政府はその個人に課する負担をさらに増やしていこうとしている。それが今の日本の現状なのだ。
「カネの切れ目が命の切れ目」と言わんばかり
まさに「カネの切れ目が命の切れ目」、経済力のある人とない人の「健康格差」「医療格差」すなわち「命の格差」は、このまま命の重みを理解できない、理解しようとしない為政者に政治を任せていけば、いっそう開いていくことになるのは目に見えている。私たち一人ひとりが、この国の政治を司る者たちの「命」や「死」に対する考え方や言動、それに基づいた政策を常に厳しくチェックし、正していく必要があるだろう。
「生」の数と同じだけ存在する「死」。誰にでも訪れるものだが、その「死」の訪れ方はさまざまだ。温かい布団の中で大切な人たちに囲まれて見送られる人もいれば、誰にも気づかれずに孤独に息を引き取る人もいる。まったく予期せぬタイミングで他者によって突然人生を断ち切られてしまう人、自ら命を絶ってしまう人、守ってくれるはずの国家によって死に追い詰められる人もいる。
こうして「死」というものに日常的に接し続けている私ではあるが、「不幸な死」と「幸せな死」の境界がどこにあるのか、そもそもそれらの境界など存在するのかさえも、正直のところ分かってきたとはとても言えない。ただ、これからも「死」に接し続けていく者として、少なくとも「不幸な死」を迎える人がこれ以上増えることがないよう、常に「死」と「命の尊厳」について初心、原点に立ち返って見つめ直し、来年以降も発言し続けていきたいと考えている。