定額で音楽が聴き放題になるサブスクリプション・サービスの利用者が増えている。批評家の佐々木敦さんは「膨大な音源を自由に楽しめるのが特徴だが、実際は皆が同じ音楽ばかり聴くという状況が生まれている。これは、サブスクの思わぬ落とし穴が影響している」という――。

※本稿は、佐々木敦『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社)の一部を再編集したものです。

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写真=iStock.com/FotoCuisinette
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「無限に近い音楽」に出会えるサブスク

「Spotify」が、日本上陸の際に謳っていたのが「ここには無限に近い、いろいろな音楽がある」ということでした。「これまで聴いたことのない、しかし聴けばあなたが好きになるであろう音楽」がいくらでも聴けますよ、と。

これは、そもそもインターネットがそういう存在でした。ネットには無限に近い情報があるわけですから、それぞれが自分の嗜好性に合わせて未知なる「好きな情報=音楽」を発見し、出会うことができる、というのがネットのポジティヴで楽観的な見込みだったのです。

しかし、インターネットがそうはならなかったように、サブスクでもそうはなりませんでした。これは以前、『未知との遭遇』という自著で書いたこととも繫がってくるのですが、人間はそうそう過剰な多様性に耐えられないからです。

多様性があること、あるいは可能性が無限に近いように見えるということが、その人の能動的に動く動機のようなものを縮小させる働きがあるのです。簡単に言えば、メゲさせてしまう。膨大な可能性を前に、「これは無理だ」と萎えさせてしまう、ということです。

ボブ・ディランも簡単に「網羅」できる

では、実際に何が起きたのか。

たとえば、2016年にボブ・ディランがノーベル文学賞を獲った時には大きなニュースになりました。その時、ボブ・ディランを知らなかったり、知っていても名前程度だった若い人がいたとします。

「なるほど、この人はミュージシャンらしい。ミュージシャンがノーベル文学賞を獲ったのは初めてらしい」……そんな具合に興味を持った人でも、サブスクを使えば、いきなりボブ・ディランの、ベーシックな音源を2日間程度ですべて聴いてしまうことができる。

そういう意味では、筆者は、サブスクはものすごく良いものだと思っています。それ以前は、お金や、調べたり探したりする時間といった、何かしら対価を払ったり、それなりに苦労をしなければならなかったものに、ほぼノーコストでアクセスすることができるようになったのですから。心ゆくまで、新しい音楽体験を追求できる──はずでした。

しかし、実際には、ほとんどそうはなりませんでした。そうした使い方をしたのは少数派だったのです。