原子力との9年を「オールクリア」に

1972年8月、大前さんが知人に送った転職挨拶のハガキ(一部を編集部で加工してあります)。

転職先の内定は得たものの、それを理由に日立を辞めるのは嫌だった。だから日立の了承が取れるまで待ってくれとマッキンゼーにはお願いしていた。

しかし、ほどなくそのタイミングはやってくる。1972年の5月だったと思うが、嶋井副工場長に呼ばれて「もうキミの好きにしていいよ」と言われた。

事情を聞けば、嶋井さんは笠戸工場(山口県下松市の日立製作所笠戸事業所。主に鉄道車両製造を担当)に、綿森(力、工場長)さんも本社の機電営業本部に揃って異動になるという。

「我々が責任を持ってキミの面倒を見ることができなくなってしまった。本当にここを辞めたいなら、もう引き止めない」

そう言われた次の日に「このたび日立を円満退社して、マッキンゼーに行くことになりました」という葉書を書いた。実際に辞めたのは仕事が一区切りついた8月だった。

大学時代から数えて9年間携わってきた原子力から足を洗うことに抵抗はなかった。矛盾を感じたらオールクリアにする。私の人生はずっとそうなのだ。

GEのお墨付きがなければ買わないお客さん。住民説明会に行けば石を投げられる。東北電力に収めた蒸気タービンのブレードがぶっ飛んで、社長が謝罪に行ったことがあった。社長の土下座姿が私にはショックだった。社長になってもああまでしなければならないのか。「もう辞めていいや」という気持ちが次第に大きくなっていった。

カミさんはもともと東京で暮らしたがっていたし、日立を辞めることに異を唱えなかった。彼女は私のキャリアデシジョンに反対したことがない。

原子炉から離れて、何でもいいからもう一度ゼロから始めよう——。ただそれだけの気持ちで、コンサルティングという未知の世界にふらり足を踏み入れた。

次回は「なぜ私には福島第一がわかったのか」。6月18日更新予定です。 

(小川 剛=インタビュー・構成)