願いを発した瞬間に、それを叶える道が開ける
「華厳経」というお経には、「はじめて発心(悟りを志すこと)した時、すでに悟りが完成している」と説かれています。この経文を引いて「まさにその通りである」と空海がいっている一文です。
「華厳経」は、奈良東大寺を総本山とする華厳宗の中心となるお経です。
「悟りたいと願った時に、もう悟っているのだ」といっているのですから、一瞬「どういうことだろう」と戸惑うかもしれません。この真理について、華厳経では、こんなエピソードが語られています。
主人公は、善財という少年です。善財は、ある日、文殊菩薩を訪ねて「私は悟りたいのです」と訴えます。
すると文殊菩薩は、ある人の元で学ぶようにと善財に指示しました。そして、それが終わると、また次の人の元へ行くようにといい渡しました。
「道」が求めていた世界へと導いてくれる
結局、五三人の師から学んだ善財は、最後に訪れた普賢菩薩の元で悟りを完成させます。その時、これまでの道程を振り返り、五三人の師を思い出して善財は愕然とするのです。「最初に文殊菩薩を訪れた時に、自分はすでに悟っていたのだ」と。
つまり、悟りたいと発心したその瞬間に、悟りへの道が自分の前に開けたのだと善財は理解したのです。それは発心した瞬間に悟りが完成し、自分の中にあったということです。
発心した時に、すべてが自分の中にある。この真理は、悟りに限ったことではありません。
たとえば、「幸せになりたい」と願った時、その時点で、幸せへの道がスッと開けています。
もちろんその道を進む過程では、善財と同じように、さまざまな学びや行動が必要です。時には、なんらかの対応策を講じなければならなかったり、転んで痛い思いをしたりもするでしょう。
しかし少なくとも、道そのものは、願いと同時に開けるのです。あとは、その道をどう進んでいくかです。苦労をいとわず前進していけば、その道が必ず、あなたを望んだ場所へと導いてくれるでしょう。
分かれ道で悩みながらも密教を究めた空海
抜きん出た才能と行動力を持ち、精力的に密教を広めた空海ですが、悩みがなかったわけではありません。前述の『三教指帰』では、「正しい道が見えず、分かれ道の前でいくたびか涙した」と書いています。それでも、壮絶な努力を重ね、密教を究めるという志を貫いた空海。それは、悟りたいという発心を一時たりとも忘れなかったからでしょう。