峠手前の山道に人夫の足が…
筆者がそのように考えるのには理由がある。
それは、イチが喰われた事件以降、殺害現場である下富良野幾寅周辺で、長期にわたって人喰い熊事件が確認されているからである。
たとえば明治41年、幾寅から北へほど近い富良野町内で、60歳ほどの行脚僧の凍死体が発見されたが、腹部、大腿部が喰われ内臓が露出していた(『小樽新聞』明治41年4月11日)。
また明治42年には、幾寅の東、狩勝峠手前の山道に、人夫の足が転がっているのが発見された。巡査が取り調べたところ、
「現場にはただ髑髏一個、脊髄片骨一本及び両脚の骨のみにて、左足踵先はわずかに残れる肉片に足袋をうがち、右足もまた足袋をうがちしまま脛骨以下存しあり、付近に骨片散乱し見るも無惨なる有様なりし由」(『小樽新聞』明治42年10月8日)
という状況で、ヒグマに喰われたことは明らかであった。
さらにまた大正4年には、馬小屋で老婆が引き裂かれるという凄惨な事件が起きている。
これらの事件は、いずれも幾寅から約20キロ圏内で発生しているのである。
「人肉を喰った経験」が受け継がれている
同じ地域で長期にわたり、人喰い熊事件が散発するという事例は他にもある。
筆者が作成した「人喰い熊マップ」を俯瞰してみると、ピンポイントで人喰い熊事件が続発する特異な地域があることがわかってきた。
たとえば根室市別当賀、厚岸町別寒辺牛、白糠町尺別周辺、大樹町、広尾町周辺、瀬棚町などである。これらの中には、明治・大正・昭和と数十年にわたって散発している地域もある。
その理由を考えてみれば、人肉を喰った経験が、数世代にわたって受け継がれている以外に考えようがないのではないか。
人喰い熊の出現確率は0.05%程度に過ぎないのである。
思い起こしていただきたい。大正15年に、森下キヨを喰い殺した加害熊は「親子熊」であった。
この事件で人肉の味を覚えた子熊が、その後成獣となり、同じ手口、すなわち農作業中の人間を襲うようになったとは考えられないだろうか。