事件は「人喰い熊の子孫が引き起こした」?

ここで筆者は、「ある可能性」について考えてみたい。

3つの事件の要点をまとめてみよう。

・いずれもオホーツク沿岸の集落で発生した。
・いずれも農作業中の女性が狙われた。
・襲撃の目的が食害であることが明白である。
・発生日時が、大正15年(昭和元年)、昭和3年、昭和7年と、2年ないし4年のタイムラグがある。

3つの事件の加害熊が同一個体という可能性もなくはない。

だが、雄武村から斜里村まで直線距離で160キロあるので、別の個体の仕業であると考えるほうが自然だろう。

そこで筆者が考える「可能性」というのはこうである。

個々の事件は別の個体によって引き起こされた。つまり加害熊はそれぞれ別である。

しかし、その加害熊は、血縁関係にあったのではないか。

言い方をかえれば「人喰い熊の子孫たち」によって引き起こされたのではないか。

クマの親子
写真=iStock.com/Byrdyak
加害熊は血縁関係にあったのか?(※写真はイメージです)

かよわき少女は抵抗する術もなく…

ここでひとつの事例を挙げよう。

それは明治37年に下富良野村幾寅で起きた陰惨な事件である。

少女大熊にさらわる 空知そらち郡下富良野村字幾寅いくとら士別しべつ南2線西45番地の農業、笹井源之助は、夫婦の外に長女イチ(11)との3人暮らしにして平生、夫婦が農事に出かけた後は、子供に留守居をさせるのを常としていたが、去る21日の朝、例のごとく夫婦が出かけた後に、イチはひとり留守を守って家の表に遊んでいると、正午頃になって2、3頭の大熊が現われ出たので、イチは大いに驚いて、あわてて隣へ走ろうとした刹那せつな、1頭の老熊がイチを目がけて飛びかかりざま、かよわき少女の抵抗する術もなく、そのまま近辺の草むら中に引きずっていって、牙をうち鳴らして餓腹がふくを満たした。

人足れなる山家の事とて、この大惨劇を知る人は絶えてなかったが、たそがれ頃、笹井夫婦が帰り来たり、娘がいないのに不審を起こして四辺をさがすと、あちこちに大きな熊の足跡いくつとなく、血の痕さえ混じって散乱していたので、にわかに騒ぎ出し、近隣の人々を集めて捜索してみると、自宅より30間ほどの道路に血痕の点々散在しており、さらに東方約30間の箇所に、イチの着衣あわせ1枚、いばらの小枝に引っかかっており、さらにそれより約6町ほどへだたった森林中に、大熊のために噛み殺されたイチの死体を発見したが、その惨状は目も当てられぬ有様」で、「四肢および臀部でんぶはもはや腐爛ふらんして白骨をあらわし臓腑その近辺にあふれ出で」(『北海タイムス』明治37年7月24日より要約)