ほかのデザイナーとは別ルートへ
本来望んだものではなかったにしても、自ら身を投じたラグジュアリーブランドのデザインの世界。窪田礼子さん(仮名)にとって、それはどのようなものなのだろうか。
「仕事は面白いのですが、自分の生活レベルと違う人のための物を作るので、ちょっと無理がありましたね。200万円を、2万円感覚で使う人たちのためのものですから。何とか頑張って、絵がうまいというだけで乗り切ってきた感じです」
窪田さんは期せずして、社内の他のデザイナーとは異なる道を歩むこととなった。1986年、総合職となり異動となったのは、新事業を統括する部署だった。ここでは事務作業から商品の企画まで任された。
その後もデザイナーではあるが、百貨店の外販員など外部の人間に、自社の商品の特徴を説明する仕事も任された。
「他のデザイナーには全くそんな仕事は求められないので、私は変な人扱いの枠なのかと思っていましたが、その間、どんどん出世して行きました。デザイン専門職として課長になっていたのですが、上司からさらに昇格試験を受けるよう勧められたのです」
無理やり受けさせられた昇格試験
その試験はすでにエントリーの締切りが過ぎていたにもかかわらず、「お前、試験、受けろ」と強引に受けさせられたものだった。
程なく自覚したのは、これは自分を組合員から外すために意図されたということだ。「あいつはうるさいから、黙らせとけ」とばかりに、無理矢理に受けさせられた昇級試験だった。もちろん、試験は合格。その後の役員面接では通常の倍の時間を使って、「ボロクソに叩かれる」という試練が待っていた。
「たとえば新ブランド立ち上げの時、関連部門がことごとく片手間で援護体制が取られてなかったので、組合に訴えました。当時、私は組合にいろいろ訴えていて、それが、役員には気に入らなかった。組合員にしておくと面倒くさいから、昇格させてしまえというやり口ですね。正社員は全員、組合員なのですが、課長は組合員から外れないといけなくて、そのための試験でした」
だから昇級試験の役員面接は、窪田さんを恫喝するためだけの場となったのだ。その場で窪田さんは「わんわん泣いた」という。今なら、権力を使った立派なパワハラだ。