均等法第一世代の女性たちが定年を迎える年齢に達している。この法律は、女性に何をもたらしたのか。窪田礼子さん(仮名)は男女雇用機会均等法が制定された1985年に就職。入社1年目にお茶くみの廃止と制服の撤廃をやってのけた。女性の負担を和らげると信じて実行したことだったが、かえって女性から批判を受けることになった――(1回目/全2回)。
外に出て呼吸を整える日本のビジネスウーマン
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採用されるのは「広告主のお嬢さん」だけ

目の前に座る女性は、端正な服に身を包み、やわらかな笑みをたたえていた。休日の朝とは思えない、隙がない装いだ。窪田礼子さん。対面した瞬間、手元のブレスレットの美しさに目が吸い寄せられた。

「これは私がデザインしたもので、長さが調節できるんです。残念なことに、商品化には至らなかったのですが」

窪田さんは、ラグジュアリーブランドのデザイナーだ。60歳を過ぎた今は、再雇用でありながら責任のあるポジションに就いている。

グラフィックデザインの仕事に就きたいと思っていた窪田さんだが、今の会社を選んだのは、1980年代半ばに存在していた就職における厳然たる男女差別と、“イエ制度”を重視する厳格な父への“忖度そんたく”からだった。

「最も行きたかった大手広告代理店は、女性を採らないという暗黙のルールがあり、涙をのみました。女性を採るとしたら、広告主のお嬢さんという時代でした」

窪田さんと同世代の私にはわかる。当時、就職には見えない壁があった。「四年制大学を出た地方出身の女子は採らない」のもそうだ。

このままでは見合いで嫁に行かされる…

そしてもう一つ、窪田さんを縛っていたのが実父の封建的な考えだった。

「“イエ制度”の憲法の下で育った昭和一桁生まれの父は、“家”をものすごく重視し、自身はサラリーマンで継ぐべき家などないのに、私の兄を当主であり、後継ぎだと言っていました。女の私は見合いで嫁に行かされることがわかっていたから、就職は絶対に東京に行こうと……」

広告の次に興味があったのはファッションだったが、父が「何処の馬の骨ともわからない」と難色を示したため、ラグジュアリーブランドを傘下に収める企業への就職を決めた。

「父への反発、男女不平等への怒りはありましたが、親と決別してまで貫くという気持ちはなく、万事丸く収まる方法として選んだ就職先でした。住宅手当も出て、自分の技能を生かしデザイナーとして働けるのだからと」