「スピードキング」と呼ばれた男
筆者が、上野裕一郎を初めて取材したのは、もう20年前のことになる。
2002年12月、丸刈り頭に眼鏡姿が印象的だった17歳は佐久長聖高校の全国高校駅伝1区を託された。開会式の後、翌日のレースについて話を聞いた記憶がある。
その約3カ月後。長野県まで出かけて、上野と1学年下の佐藤悠基(現SGホールディングス)を取材した。上野は高校から本格的に競技を始めた選手。入部時に、「マラソンで世界記録を出すのが目標です!」と先輩たちにあいさつするほどのビッグマウスだった。
一方で走りのスケールもビッグだった。高3時は5000mの高校記録を目指して、ケニア人留学生や実業団の選手にも果敢にチャレンジした。目標タイムには届かなかったが、13分台を連発。12月には10000mで28分27秒39の高校記録(当時)を樹立した。この記録は現在でも高校歴代5位にランクしている。
中央大進学後はトラックと駅伝で活躍して、「スピードキング」と呼ばれた。全日本大学駅伝は4年間で“29人抜き”を披露。箱根駅伝は3年時に3区で9人抜きを演じて、区間賞を獲得している。
実業団(エスビー食品→DeNA)ではトラックを中心に競技を続けて、2009年の日本選手権5000mで優勝。同年のベルリン世界陸上に出場している。
上野は“こだわり”が強く、「負けず嫌い」という印象が強い。箱根駅伝では花の2区ではなく、持ち味のスピードが生かせる3区でエースとしての役割を全うした。実業団時代は他の選手の半分くらいの走行距離でとにかくスピードを磨いてきた。
そして立教大監督に就任した上野裕一郎を取材して感じたのはずいぶんと大人になったことだ。まず周囲への感謝の言葉が非常に多い。今回の快挙についても、「私がつかみとったというよりも、学生たち一人ひとりが努力をした結果です」と自分の“手柄”を一切口にしなかった。
「監督は普段から部員に頼ってばかりですから。部員が気持ち良く走ることが一番。選手たちに大人にしてもらっています」と言い切るほどだ。そして上野監督は今でも現役ランナーの顔を持つ。5000mで13分台の走力を維持しており、「日本一速い監督」といわれている。
「監督(という肩書)ですが、自由に走らせてもらっているので、選手に嫌われたら終わりです。選手への言葉のかけ方には気を使っています」
大学駅伝部監督といえば、いかにも体育会体質で部員に対しても上から目線というイメージがあるが、「選手に嫌われない言葉かけ」を強く意識する上野監督は新タイプといっていいかもしれない。
本戦出場決定以降、上野監督が率いる立教大陸上競技部男子駅伝部の“イメージ”は急上昇している。人気ブランド校の箱根復帰は今後の学生駅伝の勢力図を大きく変えるだけのエネルギーを持っている。原監督率いる青学大と立教大は同じ難関私大MARCHであり、同じプロテスタント校。今後、箱根駅伝で二大ミッション系チームの活躍が見られるかもしれない。なぜなら、立教大は来季以降もさらなる有力新人選手の入学が見込まれるからだ。
現役時代はスピードにこだわってきた上野監督がどんなチームを築き上げていくのか。非常に楽しみだ。