間もなくベルリンの壁は壊され、東ドイツが崩壊して西ドイツと統合された。東ドイツがソ連からの離脱を表明すれば、ソ連軍が攻め込んで戦争になるのではないかと懸念されていた。しかしゴルバチョフ氏は、軍隊を送らなかった。東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー議長も殺されることなく、チリに亡命した。

ゴルバチョフ氏は、ソ連邦崩壊を許容していた。非常に穏便な人で、最後は闘争によって奪い取るというマルクス主義的な発想はまるでなかった。戦争になるかと緊張していた西側諸国には肩すかしだった。

ソ連崩壊後の救世主がプーチン

西側から見れば大きな功績を残した彼が、ロシア国内でなぜ評判が悪いのか、彼のどこに失敗があったかを考察することは今のロシアを理解するうえで重要だ。一番大きな失敗は、経済に対する理解不足だ。

特にコメコン経済への理解だ。COMECON(Council for Mutual Economic Assistance)は、経済相互援助会議と訳され、1949年にソ連と東側諸国の経済協力を目的に設立された国際機構だ。

私は80年代に東欧諸国をまわりながらコメコン経済を研究した。コメコン経済の仕掛けを一言で説明するなら、サプライチェーンの分割統治だった。例えば自動車の場合、ある部品はウクライナで製造し、別の部品はハンガリーで製造し、チェコスロバキアで組み立てるというしくみだった。東欧圏全体で部品の生産を分担し、1つの国で一貫生産しないのが特徴だ。最大の市場はソ連で、残りは東欧圏諸国、ベトナム、キューバ、モンゴルなど10カ国だった。

だから、アルバニア、東ドイツはじめ東欧の国々がコメコン経済から離脱していくと、分割統治の仕掛けそのものであったサプライチェーンが分断され工業製品が計画的に生産できなくなった。当時から奇異に感じるほど脆弱な構造だったのだ。コメコンは一角が崩れると再構築は困難だからこそ、一気にソ連崩壊までいくと私は予想した。

ソ連とコメコン経済が解体したことで、ロシアは工業国家として存続できなくなった。現在のように石油やガス、農産物など一次産品の輸出に頼るしかなくなったのだ。

ゴルバチョフ氏がコメコン経済の仕掛けに気づいていたら、東欧諸国を政治的に解放したあとも、経済同盟体を残す道を選んでいただろう。経済がわかっていない点は致命傷だった。改革の方向性は正しかったが、方法を間違えてしまったのだ。