猪木のコネクションからもたらされた極秘情報

ところで、柔道からプロレスに転向した1人が、1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを取ったジョージア人のショタ・チョチシビリ氏でした。

当時、日本大使館の3等書記官だった私は、外国人が利用できないソ連共産党系の特別ホテルの部屋で猪木氏とチョチシビリの通訳をつとめることになりました。

勢いで一杯飲もうという話になって、1時間足らずで500ml入りのウオトカを3本も空にした。警察官僚でもあるチョチシビリは、当時、ソ連権力の中心であった共産党中央委員会に友人を多数持っていました。

猪木氏と会いたがるソ連の共産党と政府の幹部は多く、ここから私は、ヤナ―エフ・ソ連副大統領、イリイン・ロシア共産党第二書記と知り合うことになりました。

このイリイン第二書記が、1991年8月のソ連共産党守旧派によるクーデター(ヤナ―エフ副大統領は首謀者の1人でした)が進行しているときロシア共産党中央委員会の執務室で「ゴルバチョフは生きている」という重要情報を私に教えてくれました。

プロレスラーと外交官の知られざる関係

猪木氏は私によく「日本の国のために役立てるならば、何でもやるから、オレを使ってくれ。あんたは、ロシアの地べたを這いつくばって情報を取っているようだから、きっとオレを上手に使うことができる」と言うので、私はこの言葉に甘えることにしました。

当時、エリツィン大統領の側近で、シャミール・タルピシチェフというスポーツ担当大統領顧問兼スポーツ観光国家委員会議長(大臣)がいました。クレムリンでは大統領執務室の隣に彼の部屋があるので、いつでもエリツィンに会える関係でした。大統領府高官と大臣を兼任しているのもタルピシチェフだけでした。各国の大使が面会を申し入れても会ってくれない人でした。

クレムリン
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ところで、ゴルバチョフ時代、エリツィンは失脚したことがあります。そのときは、家族以外のほとんどすべての人がエリツィンから離れていきました。ラトビアの避暑地で休暇をとったときも、誰もエリツィンと話をしません。

そのとき、偶然ですが、テニスのナショナルチームのコーチをつとめていたタルピシチェフも、ラトビアで休暇をとっていました。2人は意気投合してテニスをし、友人関係はモスクワに戻ってからも続きました。最も苦しいときにリスクを負って付き合ってくれたタルピシチェフにエリツィンは恩義を感じ、権力を取った後にポストを新設し、最側近に据えたのです。

私がクレムリンのタルピシチェフ事務所に電話し、「日本の参議院議員で国際的に著名なスポーツマンであるアントニオ猪木氏がタルピシチェフ大統領顧問との会見を希望している」と伝えると、翌日、会見が実現しました。ここで日本大使館とタルピシチェフの御縁ができ、私も自由にクレムリンに出入りできるようになりました。そして、私の人脈は飛躍的に拡大しました。

それ以外にも猪木氏は、クレムリンの要人やロシアの国会議員との会見を通じ、ロシア政治エリートとの対日感情の改善と北方領土交渉の基盤整備のために努力してくれました。