AIが自身の価値観と目的意識で行動することはない

以上のような「継続によるプロフェッショナル化」は長期雇用を必然化させる。むろん近年の景気の「長期停滞」と情報化の進展は、雇用に内実を変化させている。

筆者が若い頃に経験した郵便局での方面別の区分作業(仕分け作業)のような、単純であらかじめ作業内容がはっきりしている仕事の場合は、郵便番号による自動区分機に置き換わる。つまり自動化するのである。何百人分の仕事が、一人の担当者によって行われている。

近年は、従前からあった「技術革新」という言葉ではなく、AIで、とかDXにより、といった表現が溢れているが、技術の進化内容が飛躍的に変わったという事実はない。

大型コンピュータの発達が、データの大量投入とその解析を可能とするようになっただけであり、繰り返しになるが、コンピュータ利用の目的意識、つまり何の目的で、どのようなデータを投入するのかということと、それを担保する価値観は、コンピュータ自身にはない。

たとえば、囲碁や将棋はルールと勝負のデータの蓄積が可能だが、あくまでも過去のデータであって、AIが自分の価値観と目的意識によって行動することはない。「きょうは囲碁をやめて、麻雀でもしようか」といった複合機は存在しない。

あるいは切削のマシンは切削が高度化するが、ついでに研磨やメッキ加工、熱処理可能ということはない。みな単能機である。それゆえ『人工知能は人間を超えるか』(松尾豊著、角川EPUB選書、2015年3月)という問いかけは無意味なのである。人間には無数の多様性があるのだ。まあ本のタイトルなどというものは「売れればよい」のだから、目くじらを立てるほどのことでないのかもしれないが。

企業にも個人にも働き方の転機は訪れる

その多様性にこそ人間の成長と転機とがある。つまり「学び方」ひとつとっても、そこには意味や方法がさまざまに伏在している。明瞭な目的を持った学び方というものが確かにあるが、「なんとなく知りたい」ことに分け入り、だんだん深みにはまり、ついには専門化する、ということも人生には何度もあるものだ。もちろん企業に転換期があるように、個人にも転換期がある。

それゆえ、「40歳定年」論とか、リカレント教育(論)とか、学び方、教え方を仕事とからめて一般化して論じるのはとても難しい。

「ジョブ型雇用」か「メンバーシップ」か、などという雇用制度論などに関わる場合は、濱口桂一郎氏のように言葉の定義をはっきりさせる必要がある。「ジョブ型は「職務記述書」が示されますが、職務のタスク(課業)のレベルの違いがあり、同一労働・同一賃金はタスクが同一である場合」(『ジョブ型雇用社会とは何か』岩波新書、2021年9月)である。配置転換によりいくつもの仕事を覚え、職務(ジョブ)を深めていく、という「配置の柔構造」が日本の会社からなくなることはない。